「やりがいはある、でも…」運送業者となった交流戦初代“首位打者”が届けたいもの

マスターズ甲子園に出場した石井義人氏【写真:本人提供】

横浜、西武、巨人で活躍した石井義人氏のプロ18年間を振り返る

運転していると野球場が視界に入ってくる。新しい仕事場からはNPB球団の本拠地のライトが見える。「戻りたいな、と思うことはありますよ」……。横浜、西武、巨人で活躍した石井義人氏は今、千葉の総合物流企業に勤務している。【楢崎豊】

荷物を積んだトラックのハンドルを握る。段ボールの中身は大型量販店へ届ける衣類や、企業が使うオフィス用品などが詰まっている。守備や打撃同様、下半身が大事になってくる業務だ。ファンにヒットで感動を届けたように、今は“お客様”に満足と品質の高い商品を届けている。

「荷物が重いので野球と同じ体力勝負です。トラックに積んで、運ぶという作業を1日で14、15回くらい。体力つきますよ。上半身も、下半身も強くなる。まだ(足が)太くなったりしています」

石井氏は埼玉の名門・浦和学院で1年夏から甲子園に3度出場。高校日本代表にも選ばれた。1996年のドラフト会議で横浜ベイスターズ(現DeNA)にドラフト4位で入団。その後、西武、巨人と渡り歩き、2014年に現役引退。その後はルートインBCリーグの埼玉武蔵や山形・佐藤病院の軟式野球チーム、女子プロ野球で指導者を務めた。その後、知人の紹介で約2年前から株式会社SITに勤務をしている。

「やりがいを感じながら、仕事をしています。でも球場や少年たちが野球をやっているのを見ると、(当時に)戻りたいなと思う時はありますよ」

物流の世界で高いサービスを提供している同社で汗を流すが、野球のことが頭から離れた日はない。所属した球団、企業で野球を通じて人生を学んできたからだった。

プロ1年目の1997年。高卒ルーキーだった石井氏はレベルの高さを痛感した。1年目のベイスターズは2位、翌1998年はマシンガン打線を擁して、日本一に輝いた。

「このチーム……すごいと思いましたね。高卒とはいえ、この戦力の中で1軍にいるためにどうしたらいいんだろうと考えてました」

自分が指導者になったら「イップスは治せる」

同じ内野手では守備の名手・進藤達哉氏(現DeNA編成)、三拍子揃った同じ左打者、石井琢朗(現巨人コーチ)がいた。他にも好選手が揃っていた。

「進藤さんは守備だけでなく、状況に応じたバッティングができる。1軍で同じ姓の石井(琢)さんは自分の目標でもありました。近づきたいなとの思いでやっていましたね」

打撃を売りにプロの門を叩いた。高校時代は感じていなかったが、2人を見ていたら守備への自信は無くなっていった。レベルが違いすぎた。そして、イップスになってしまった。ボールを投げる際に力の加減がわからなくなった。

ファーム暮らしが続いた2年目、3年目。当時、2軍監督だった日野茂氏が指導してくれた恩義は忘れない。日々のアドバイスで克服することができた。

「(リリースの時に)小指を上にした方がいいとか、暴投してもいいから思い切り投げろ、とかそういう言葉をもらいました。だんだん、相手が捕りやすいボールになっていく。今、自分が指導者になることができたら、イップスは治せると思います。軟式の監督やっている時も克服した選手がいましたね」

2002年オフの西武へのトレードが大きかった。広角に打てる左打者がほしいという西武の希望が石井氏だった。移籍1年目は気負った部分や腰を痛める怪我もあったが、2年目の2004年、持ち味を発揮した。規定打席不足ながらも打率.304をマークした。ダイエーとのプレーオフ(当時)でも代打で登場し、新垣渚投手から二塁打を放つなど、リーグ優勝に貢献した。

「西武の2年目以降、自分らしくできるようになった。2004年の(プレーオフ)セカンドステージ第5戦の新垣投手から代打でレフトオーバーは良い思い出です。日本シリーズに出場して、日本一。思い出に残っています」

自分らしくとは、バッティングに重きを置くことだった。パ・リーグにはDH制もある。守備は多めに見てもらい、長所を伸ばしていった。

「DHでいいじゃないかと思い始めるようになったのが大きかったです。(当時)渡辺久信監督さんは買ってくれていたんじゃないかなと思います」

交流戦では大活躍、セ・リーグ投手を打ちまくる

2005年は規定打席を超える活躍を見せ、初年度となった交流戦は打率4割をマークし初の“首位打者”を獲得した。

「久しぶりにセの球団と対戦できたので楽しかったですね。この年は主にセカンドを守ることが多かったんですが、必死でした。守備が下手だったので、守れない分、打つ方でがんばりました」

西武ではライバルはいつも外国人選手だった。フェルナンデスやボカチカといったパワーのある打者との戦いだったが、石井氏は技術で勝負し、出場機会を得ていった。

「力で負けるけど、技術の細かさは日本人選手が上だと思っていました。パワーで負けても、ミート力、確実性は勝てるのではないかなと思っていました」

ミート力は中学までやっていた軟式野球の練習で身についたという。その感覚が指導者になっても残っていたため、埼玉武蔵でコーチをしていた頃は選手に軟式ボールを打たせて、ミート力を向上させたこともあった。

石井氏は2011年に西武を戦力外となるも、巨人が獲得。代打の切り札として活躍した。2012年のクライマックスシリーズ・ファイナルステージ第5戦ではサヨナラ安打を放ち、シリーズMVPに選ばれた。

今、ふと思う時がある。

「野球しかやっていなかったので、仕事があるだけでもありがたいです。ただ、まだどこかで野球界に戻りたい、貢献したいなという気持ちもあります。野球の指導の現場の今と昔は変わってきていると思います。スキルも上げていきたいなと思っています」

運送業の仕事をしながらも、いつか、子供たちに野球の技術を送り届けたいと願っている。

【動画】石井義人氏の絶妙スクイズ

石井義人氏の絶妙スクイズ【動画:パーソル パ・リーグTV】 signature

(楢崎豊 / Yutaka Narasaki)

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