47都道府県、県庁職員生え抜き知事列伝~がんばれ!地方公務員(歴史家・評論家 八幡和郎)

前回の『福岡県知事に県庁生え抜き副知事確実の裏事情~ 麻生・古賀・山崎の死闘』では、福岡県知事選挙で県庁生え抜きの服部誠太郎副知事が有力になったことを解説するとともに、長崎県と鹿児島県の県庁生え抜き元知事を紹介した。

かつて10ほどの都道府県でいた県庁プロパー知事が近年、ほとんどなくなっているのは、それなりの反省すべき理由もあるのだが、これでは、県庁プロパー職員の意気も上がらない。新入社員として就職しても、ほとんど社長になれるチャンスはない会社では良くないと思うのである。

そこで、今回は、九州以外の県での生え抜き知事の列伝を10人選んで紹介する。ただし、キャリア官僚が途中からプロパー化したとか、県庁プロパーでも東京大学卒というのは、入れないことにする。なにがしか准キャリア的特別扱いを受けているケースが多いからだ。また、秋田県の佐竹敬久知事はお殿様の家系で、これも特殊なので入れない。

①全国最強の愛媛県知事

愛媛県では松山藩主家の久松定武知事、剛腕の白石春樹知事が続いたことから、知事の権威が日本でいちばん高いと言われるようになった。その白石も高齢のために引退することとなり、副知事の伊賀貞雪(1987~99)が公明や民社の推薦も得て事実上の無風選挙を制した。だが、4選を狙った1999年の選挙では、若手県議や一部国会議員からの反発で、文部省OBの加戸守行(1999~)が擁立され、自民党本部も積極的に応援した。県教組も文部官僚時代の実績を肯定的に評価し戦列に加わり現職は敗れた。

伊賀定雪は、松山商業出身の県職員で白石が後継者として指名しただけあって、素晴らしい切れ者の能吏であった。国際化の流れに応じていちはやくFAZ(輸出入促進地域)の指定を獲得したり、松山空港への国際線の就航に取り組むなど積極的な経済開発を展開したし、財政の健全性維持にもすぐれた手腕を発揮したことは間違いない。

政治姿勢も就任早々は「県民を納得させる親切行政」というなど対話を強調し、白石時代とは違った謙虚なものと映った。ところが、徐々に側近政治に傾き、また、プロパー、出向者を問わず職員に対する極端に峻厳な態度、民間人でも少しでも県政改革について意見を言う者に対する露骨な嫌悪を見せた。諸行事の際には、すべての出席者が揃ってからおもむろに知事登場とか、知事が他県へ行くときは皇族並みといわれる慎重な準備を県職員がして驚かれたりもした。

白石とも1期目途中から関係が悪化し、葬儀にも出席しなかった。こうした極端な姿勢が反乱につながり、「普通の知事」を求める勢力が勝利した。

 

②中卒の一般職員から勤め上げた高知県「地下の知事」

中内力(1975~91)は立志伝中の人物である。高知県立城東中学卒業後に県庁入りし、民生部長、厚生労働部長、教育長、副知事を歴任したが、1971年の知事選挙の前年に副知事再任を拒否され、溝渕知事と自民党公認を争う構えを見せたが、4年後に交替するという約束で降りたいきさつがあった。

中内は、「地下の知事」としばしば愛称された。まったく一度も県外に出たこともなく、中卒の一般職員からまじめに県庁に勤め上げ、見るからに庶民的な雰囲気をたたえていた。

時代は、列島改造からふるさと創成、全国的にも保革相乗り、総花的ばらまき、地場産業重視などがトレンドであった。中内が掲げた①明るい社会作り、②たくましい人づくり、③安全快適な環境づくり、④豊かな県づくり、⑤同和行政の推進といったスローガンは、こうした時代の風を繁栄したもので、中内の人柄も良くも悪くもこの時代を反映していた。

だが、この生ぬるさこそが、新しい時代を求める声が生まれる素地でもあった。中内は4選され、任期の終わりには70歳代後半になっていた。その中内の後任に自民党が担ぎ出したのは、大蔵省出身で副知事をつとめていた川崎昭典で、盤石かと思われた。だが、市民グループが新しい風を吹かせられる知事をということで、NHK出身の橋本大二郎が当選した。

 

③和歌山では二人続けて県庁生え抜き

大橋正雄知事が2期目の途なかで動脈瘤破裂によって急死したあと、後継者となったのは、出納長の仮谷志良(1975~95)だった。京都大学を卒業後に県庁に入った人物で、順調に要職を歴任していったが、大橋との年齢差がわずか4歳で、その意味では、大橋知事が健在ならチャンスはなかったのかもしれない。

しかし、逆に、小野、大橋といった個性的な知事のあと、堅実な手腕で安定した県政を遂行した。大学の誘致や移転、コスモパーク加太の開発、関西空港への協力、マリーナ・シティなどリゾート構想への取り組みなど、時代に応じた事業を広く行い、さしたる対立候補も出ない無風選挙で5選を重ねた。大柄で相撲や柔道をよくし、豪放な印象を与えた。

第4代の知事は副知事の西口勇(1995~2000)だった。田辺商業を卒業し、役場に勤めつつ青年団活動などで頭角を現し、若くして下芳養村の助役をつとめていた。それを、小野知事が見出して県庁に移籍させた。立志伝中の人物であり、きめ細かく気配りができる人でもあった。

この1995年の選挙戦では、個性的な旅田卓宗和歌山市長が、前年の市長選挙で「来年の知事選には市長を途中辞任して出馬する」という公約のもとで当選し話題となった。エネルギッシュで、県単独事業として高速道路を新宮まで開通させるなどというユニークな公約でも注目されたが、暴力団関係者との交流などを攻撃されて西口の圧勝となった。

西口知事は、「南紀熊野体験博」を開催し、熊野地方にようやく陽を当てた。また、県内二時間交通ネットワーク構想のもとで、高速道路の整備なども進み、随分と県内の交通は改善された。しかし、2期目の途なかで健康上の理由から無念の降板となった。

 

④奈良で20年間の長期政権のあとを継ぐ

奥田良三は、8期29年にわたって在任した。だが、それ以上に驚きなのは、知事就任時に三高・東京大学の同級生であった下位真一郎を副知事に、出納長に県警出身の西上菊雄を起用し、それぞれ20年以上も在任させたことであろう。

しかし、奥田はこの2人を辞めさせ、上田繁潔を副知事として育てたあと、8期目途中で健康上の理由に辞任を表明し、上田にバトンタッチした。

奈良市生まれ。旧制金鐘中学(現東大学寺学園高校)から関西大学を経て奈良県庁に入り、1975年に総務部長から下位副知事の後任となった。シルクロード博覧会を成功させるなどした。

 

⑤滋賀県では大阪府庁から移籍の県職員知事

革新知事として当選し、その後は、2期連続の無投票当選ののち、武村は国政へ転身し、野心的な県内の首長を排除しつつ、副知事の稲葉稔(1986~98)を保革相乗り候補とさせることに成功した。

稲葉は高校を卒業後、県職員となり、企画部長などとして清潔で気骨ある人物として評価を得ていた。稲葉県政は、基本的には武村県政の継承であったが、間口広く挑戦した武村に対して、滋賀県の原点である琵琶湖にこだわった。「淡海文化の創造」というのが看板であったが、世界屈指の設備と意欲的な演目で知られるオペラハウス「びわこホール」は、稲葉県政の置きみやげだ。

稲葉は無風で3度の選挙を乗り切ったが、末期には健康を害し、4選目の出馬は断念した。そのあとをめぐっては、10名を超える名前が取りざたされたが、総務部長の國松善次(1998~2006)が各政党の支援を取り付け、出納長の高井八良、自治官僚の吉沢健などを大差で破って当選した。國松は滋賀県立短大農学部から中央大学の通信制で学びつつ大阪府庁で働き、武村時代に滋賀県庁に転籍した。若い頃から日本遺族会の幹部として活躍していたという別の顔もある異色の職員だった。

政党の力学としては、参議院選挙を前にして、武村に近いと見られた國松に自民党も争うことなく相乗りしたと説明できるが、活発な武村のあとに堅実な稲葉を選んだ反対で、静かだった稲葉のあとにフットワークがよく分かりやすい國松が好ましいというバランス感覚も働いた。カジュアルなサマーファッションをトレードマークとし、毎年、自転車で琵琶湖を一周するという行動派でもあった。「滋賀県は宇宙船びわこ号」だと夢を語り、改革派知事の一角に名を連ねようと望んだ。市町村合併などでは全国有数の成果を上げたが、やや総花的という批判も受けた。

2選目は無風だったが、3選目の選挙では、京都精華大学教授で長く県立琵琶湖博物館の研究員だった嘉田由紀子が手を挙げた。各政党は逡巡ののちに現職を推薦したが、新幹線の駅新設反対などを掲げる新人が当選した。一言で言って、国松の油断だった。

⑥長野五輪は成功させるが後継候補は選ばれず

革新県政ののち、1959年には副知事で上水内郡小川村生まれの西沢権一郎(1959~80)が共産党候補を相手に楽勝。西沢は東京高等蚕糸学校を卒業して教壇に立ったが、高等文官試験に合格し、県庁に迎えられ、55年には副知事になった。

社会党系と見られていたが、これに保守系も相乗りした形になった。だが、徐々に革新色を弱めたので、3期目は社会党が推した県企業管理者の相沢武雄が挑戦した。また、4期目はやはり社会党推薦の村沢牧が出馬したが圧勝した。2期目と6期目は共産党系候補を相手の無風選挙だった。

西沢は手堅く政府の高度成長路線に乗り、明治以来の県庁移転要求で難航していた長野市での新庁舎建設を、松本・諏訪に新産業都市の指定を取り付けることで解決した。観光基盤の充実、中央自動車道の建設なども西沢県政下の成果である。

1980年には吉村午良(1980~2000)が20万票以上の差で前教育長の水口米雄を破り初当選。吉村は長野市出身で1938年に東京大学法学部卒業後すぐに長野県庁に勤務。4年後には課長となったが、そののちに、宮城県、自治省に転じ、1965年になって長野県に総務部長として復帰。71年には副知事となった。その後の4回の選挙も楽勝だった。吉村は長野五輪をなんとか成功させたが、数々の疑惑も浮上し、後継候補の池田典徳副知事は田中康夫に敗れた。

 

⑦田中角栄に屈しなかった医者の新潟県知事

君健男(1974~89)は新潟医科大学卒の医者で、県衛生部長から総務部長、副知事をつとめた。参議院議員を経て、社会党の松沢俊昭に圧勝して知事となった。その後の3度の選挙も楽勝し、とくに、4度目の選挙では田中元首相から知事選出馬を勧められ、地元出身の佐川急便創業者に支援された十日町市長の諸里正典氏を下した。

君の任期中には、上越新幹線、上越自動車道などが開通し観光客も増え、長岡でテクノポリスも建設されるなど、日本海側の後進性をようやく克服できる基盤が整った時代であった。

新潟県民にとっては、知事らしい知事として記憶に残っているのは、この「医者の知事」であった君健男であろう。「辞任の決断を致すことになりましたことは、誠に断腸の思いであります」、「(最初の)手術は、胃幽門部大彎側壁の癌により胃の三分の二を剔出」、「昨年十月の手術は、残胃吻合部に接して、再び癌が発生したための膵脾合併胃全剔出手術」、「四月八日以降、極端な激痛を伴う座骨神経痛を併発し、寝返りも出来ない」、「これ以上知事の職にとどまることは、(中略)本県の着実な発展に、大きな支障を齎す虞があると判断し、一日も早く私に代わる適任者に県政の将来を託したい」としたのである。君は病気のために辞表を出し、その翌日に力尽き死去した。

田中政権が倒れた年に就任した君知事は、ロッキード事件で田中が逮捕されたとき、「行為は憎むが、功績はあったのだから温かく引退を見守りたい」とコメントして田中を激怒させ、その後も、田中から一定の距離を保った気骨の人物であった。ただし、この軋轢が、後任者が逮捕される佐川急便事件につながることはあとで書く。

⑧地方のドンがいなくなったあとの山形県知事選挙

山形県では、山形新聞、山形放送、山形交通などの社長や会長を歴任した服部敬雄が朝日新聞から地方マスコミのドンとなった。「花笠まつり」を創設するなど功績も多いが、逆らうことができない地方ボスとして全国マスコミでも報じられたり幾多の神話も生んだ。「服部知事・板垣総務部長・金沢(山形市長・金沢忠雄)総務課長」などと揶揄されたこともある。

だが、服部は1991年に死去し、その2年後に板垣が病気のために辞任したので、後任を選ぶ知事選挙は一気に乱戦となったが、髙橋和雄(1993~2005)が制した。元自治事務次官で前参議院議員の降矢敬義、榎本和平元代議士らの新人5人による乱戦となったが、4万票差で高橋が土田を振り切った。

高橋は東北大学法学部卒で、県庁の東京事務所長、 農林水産部長、 教育長、 副知事など歴任していた。高速道路整備などを進め、「本県のこれまでの計画は全国との格差是正だったが、目標はかなり達成した」と総括した。

「開発」を「発展」に替え、「新総合発展計画」として策定した。それでも、オール与党は「ハコモノ」県政を推進し、また、大手ゼネコン幹部が知事室に挨拶に来て置いて帰った笹蒲鉾の箱から2000万円がみつかり、出納長が辞任に追い込まれたこともあった。

再選時は無風だった。3選目には共産党を除くオール与党の県議会からも強い支持を受けたが、突然に日本銀行から1年半前に故郷で働きたいとの理由で山形銀行に転職していた47歳の齋藤弘が出馬した。これを、政治資金問題での議員辞職からの復権を狙う加藤紘一が支援し、さらに、遠藤武彦といった自民党議員、それに東根市長となっていた土田正剛も支援した。

こうなってしまったのには、高橋を最初の選挙で支えた近藤鉄雄元代議士の息子である洋介や、鹿野道彦が民主党に属し、これを高橋が義理堅く支持したのに反発したという事情もあった。選挙戦では、斎藤が無党派を標榜し、自民党は意見が割れて党としての推薦を出さなかった。そして、わずか4000票の差で斎藤が勝利した。高橋の74歳という年齢、元県職員という経歴が、行政改革に不熱心と見られた。

 

⑨鈴木善幸の支援で代議士から岩手県知事へ

中村直(1979~91)は鈴木善幸の腹心だった。中村は紫波郡の出身で、盛岡農業学校で学び県庁入りし、副知事にのぼりつめた。退官後は岩手銀行専務などを経て、鈴木善幸の助力で同じ選挙区から票を分けてもらって当選していた。中村は、2期目は無風選挙、3期目も社会党県議の高橋節郎を大差で退けた。

この任期中に、東北新幹線が盛岡まで開通した。九州新幹線が博多止まりであることと比較すれば、岩手県選出国会議員の政治力の高さがものをいった。北上テクノポリスにはIC産業が立地し、国際興業、コクド、リクルートなど圏外資本による観光開発も進み、最終的には長野に国内選考で敗れたがオリンピック誘致も話題になった。

全国的にも「地方の時代」といわれた時期だが、岩手県はその恩恵を順調に受けたといえよう。中村は 3期務めて勇退した。

 

⑩北海道職員から北海道開発庁事務次官になったわけ

北海道では戦後に道庁労組の委員長だった田中敏文が革新知事となったが、政府は北海道開発庁をつくって知事の権限を削いだ。北海道開発に功績があった名門出身で、偉大な知事だった町村金吾の後任になったのが、北海道開発庁事務次官の堂垣内尚弘(1959~71)だった。革新勢力は北海道大学出身で北炭勤務から道議をつとめていた塚田庄平を立てた。おりしも革新自治体全盛だったのでまれに見る接戦だったが、1万票余の差で堂垣内が逃げ切った。

堂垣内の実家は札幌の雑貨商で、北海道大学工学部卒業。海軍省を経て、北海道庁に勤務したが北海道開発庁へ出向し、事務次官をつとめたあと天下りせずに北海学園大学教授となっていた。北海道らしい文化や生活様式を確立しようという北方圏構想を進め、1972年の冬季オリンピックの誘致にも成功した。

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