幻となった日本ハムでの「背番号5」 チーム変えた“新庄劇場”…仕掛け人が語る真実

元日本ハム・新庄剛志氏【写真:Getty Images】

北海道移転当時にチーム統轄本部長だった三澤今朝治氏が語る“新庄効果”

北海道に移転してから18年目のシーズンを迎える日本ハム。移転当時、チーム統轄本部長を務めていた三澤今朝治氏は、移転の目玉として新庄剛志氏獲得に奔走した。このほどFull-Countのインタビューに応じ、“新庄劇場”の舞台裏を明かした。前後編の2回に渡ってお届けする。【石川加奈子】

昨年12月に行われた「プロ野球12球団合同トライアウト」に、日本ハムのユニホーム姿で参加した新庄氏の映像を見て、三澤氏は感慨を新たにした。

「非常に体も締まっているし、動きはスピーディ。スイングの速さと強さもあったので、本気で戻ろうとして1年間頑張ってきたんだなと思いました。48歳で再挑戦するという野球に対する情熱は素晴らしい」

その情熱は、北海道移転を控えた2003年オフに初対面した時にも感じた。「阪神時代は目立ちたがり屋で自分さえ良ければいいという選手だったと聞いていたのですが、全く違いました。自分は二の次で、チームメートに気を使い、絶対に表に出ず、チームを立ててくれました」と振り返る。

象徴的なエピソードがある。当時、NPBが制作する日本代表のポスターに各球団から選手1人ずつを出すことになっていた。NPB側は新庄氏を要望。三澤氏がその旨を新庄氏に伝えると「小笠原(道大)君がいるのに、なぜ僕なんですか? 断ります」と答えが返ってきたという。

NPB側も簡単には諦めず、三澤氏は板挟みになった。すると三澤氏に配慮した新庄氏が「じゃあ、小笠原君が納得してくれたら、いいです」と返答。そのことを伝え聞いた小笠原氏は「そう思っていただけただけでうれしいです」と新庄氏の気遣いに感激していたという。「そういうこともあって、チーム内にネガティブな反応は全くなかったですね。逆に好印象で、チームワークに役立っていました」と三澤氏は新庄氏の人間性を高く評価する。

日本ハム・井出と巨人・入来のトレードが早期に決まっていれば…

背番号1の誕生にも裏話があった。「交渉で希望を聞くと、お金のことはあまり言わず、こだわったのは背番号でした。5番が欲しいと。当時、井出(竜也)君が付けていたんですが、ちょうど巨人の入来(祐作)君とのトレードが内々で決まっていたので大丈夫だろうと思っていました。ただ、その後いろいろあって入団発表までにトレードが正式に決まらない。5番の次は何番がいいかと聞いて、1番になりました」。トレードの進捗状況によって阪神時代から慣れ親しんだ「5」は幻に終わったが、新たな背番号で光り輝き、巨人ファンの多かった北海道民を熱狂させた。

新庄氏が契約交渉でもうひとつ要望したことは、補殺のインセンティブだったという。「過去に選手から補殺と言い出した例はなかったので、ちょっとビックリしました。よっぽど肩に自信があったんでしょう。補殺15だったかな。大変な数ですよ。必ず走ってくれたら、楽勝でいったと思うんですけど、途中からコーチャーがサードで止めてしまいましたからね」と懐かしそうに振り返る。

入団が決まった後、新庄氏は登録名のローマ字表記を希望し、新庄シートの設置と札幌ドームへの個人広告の掲出を提案した。三澤氏は破格の申し出に、また驚いた。「センターの後ろ100席を自分でお金を出して招待しますと提案してくれました。広告の方は当時、札幌ドームにあまりなくて、センターに新庄の広告を一番先に吊るしたという感じでした」と感謝する。

新庄効果は絶大だった。2004年の名護キャンプには大勢の人が詰めかけた。「記者は例年20人か30人でしたが、あの年は報道陣が100人とか150人来ました。ファンもそれまでは日曜日でも200~300人だったのが、平日なのに何千人。ファンから注目されている、ファンが大事だということを選手が意識するようになったのは、あの年からですね」と三澤氏。東京時代から状況が一変した、忘れられない光景を思い起こした。(石川加奈子 / Kanako Ishikawa)

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