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被り物など派手なパファーマンスは「外国人監督だったから、理解できたのかな」
北海道に移転してから18年目のシーズンを迎える日本ハム。移転当時チーム統轄本部長を務めていた三澤今朝治氏は移転の目玉として新庄剛志氏の獲得に奔走した。このほどFull-Countのインタビューに応じ、“新庄劇場”の舞台裏を明かした。後編はパフォーマンスについて。【石川加奈子】
三澤氏は新庄氏が行うパフォーマンスのタイミングにいつも感心していた。「チームが低迷したり、活気がちょっと落ちている時を選んでいました。自分がパフォーマンスをやりたいからじゃなくて、チームの状態をよく見ながらやっていたんです。もちろん球団に事前に話をして、営業にも全部話をしていました。ファンを喜ばせるだけではなくて、本当に考えてやっていたところはすごいなと思います」。状況を把握して入念に計画しながらも、自然な流れで周囲を巻き込み、盛り立てていった新庄氏の手腕を高く評価する。
シーズン中に行った被り物などのパフォーマンスについては「今思うと、外国人監督だったから、理解できたのかなと思います」と当時のトレイ・ヒルマン監督の功績を口にする。「日本人監督だったら『そんなことより、野球を一生懸命やれ』ということになったと思いますよ」と推測。様々なタイミングと事情が合致して「新庄劇場」が社会現象にまでなった。
もちろん、野球のプレーでも魅せたからこそ、あれほど大きなムーブメントになった。三澤氏が北海道移転の目玉にしようとメッツでプレーしていた新庄氏の獲得に動いたのは2003年夏。当時球団内では「終わった人間じゃないのか?」という否定的な意見もあった。役員会で三澤氏は「ホームランは20本、打率は2割7分から8分、80打点以上は挙げることができます」と断言して強く推した。2004年の新庄の成績は打率.298、79打点、24本塁打だったから、この見立ては間違っていなかった。
ナイターの日に正午に球場入り、特打に励むシーンを何度も目撃
三澤氏は、新庄氏が陰で努力する姿を目の当たりにして納得したという。「ある日、球団事務所の窓から外を眺めていると、12時頃に赤いフェラーリが球場の駐車場に止まりました。新庄君でした。その日はナイターなので、選手は午後2時頃に集まり練習を開始します。何か用事で早く来たのかなと思っていたら球場に入り、打撃投手に頼み、特打を始めました。バッティングの調子が落ちると、早く球場に来て、特打をやることが再三ありました」。
体のケアにも人一倍気をつかっていた。「太腿の肉離れがあったので、個人でトレーナーを雇い、キャンプ、遠征にも帯同させていました。札幌ドームで試合を終えると、シャワーを浴びて帰る選手がほとんどでしたが、新庄君と小笠原(道大)君(現日本ハムヘッドコーチ)は、試合が終わるとトレーニングルームに入り、クールダウンをし、体のケアをして帰っていく。選手としての自覚が素晴らしく、陰で努力をしていましたね」と三澤氏は語る。
新庄氏のプレーやパフォーマンスに魅せられたファンが札幌ドームに足繁く通うようになると、波及効果はチーム全体に及んだ。「東京ドームにいた頃は、入っても1万か2万が最高で、5000人くらいの時もありました。当時の選手たちは自分の成績を上げることしか頭になかったというとちょっと語弊がありますが、ファンを意識しだしたのは、新庄君が来てファンが集まってくれるようになってから。ファンがこんなに喜ぶんだ、自分の一挙手一投足がすべてファンにつながるんだ、と強く感じたんだと思います」と語る。
「北海道移転が決まった時には不安もありましたが、彼の貢献度は非常に大きかったです」と三澤氏はしみじみと語る。今や多くのファンに愛されるチームになった北海道日本ハムファイターズ。その躍進の土台には、新庄氏の野球への情熱と人間力があった。(石川加奈子 / Kanako Ishikawa)