松永光弘 畳針デスマッチを敢行 「ミスター・デンジャー」の存在を新世代に見せる!!

決戦3日前、畳針に刺さった大谷の写真を公開し松永は挑発してみせた

【ミスター・デンジャー松永光弘 この試合はヤバかった】“悪”になりきってゼロワンMAXのリングで壮絶バトルを繰り広げた松永光弘氏。だが、当時のプロレス界の新陳代謝の流れは、大谷晋二郎をデスマッチに引きずり出したミスター・デンジャーにも徐々に迫っていた。

【2008年1月24日 松永光弘VS大谷晋二郎】

ゼロワンでは、今まで一番やりたかったヒールを楽しんでいました。楽しんでいるといっても団体、選手、ファンとコミュニケーションを取らず、ストイックに孤高でいることを徹底していました。今までのように新しいデスマッチを考えるプレッシャーもなかったのですが、3年目から状況が変化してきます。

そのころ、勢いがあったのは大日本プロレスでした。私が2001年に辞めた団体ですが、約2年間絶望的に停滞したのち、伊東竜二選手を筆頭として見事な復活を遂げていたのです。デスマッチにおける選手層も厚く、人気も絶大でした。

私としては、新しい芽を摘み、ミスター・デンジャーとして世代交代を許さない試合をしたいところですが、今までとは全く状況が異なりました。このころの大日本プロレスは、新生大日本プロレスと言うのにふさわしく、若い新しいデスマッチファンを獲得していました。そのファンは、私の存在を知らないのです。しかも、勝負を挑もうにも、この数年前に私は大日本プロレスと絶縁状態になってしまっていました(それは伊東竜二選手をしつこく挑発したからで、これに関しては100%私が悪いです。引退後に、伊東竜二選手とのテレビ対談にて、「実は伊東選手と闘いたかったが手法を誤った」と告げて和解しています)。

そこで私は「ミスター・デンジャー」の存在を見せるべく、ゼロワンでのデスマッチを行いました。それは畳針デスマッチ。畳針1000本を15万円ほどで購入して半畳の畳に自ら打ち込みましたが、五寸釘の1000本と違って畳針の1000本はスカスカです。この時点で予算オーバーとなり、また増量には命の危険を感じましたが500本を自腹で追加購入して打ち込みました。

なにせ針ですから、今までで一番危険なデスマッチです。試合前日、危険度をヒシヒシと感じて、今までにない後悔をしましたが、これは新しいデスマッチファイターたちに対する意地でした。試合は私が胸から畳針ボードに落ち、対戦相手の大谷選手に抱き起こされた時に、畳針ボードが胸から落ちないという壮絶な結末でしたが、幸い致命傷には至りませんでした。

プロレス雑誌の扱いも久しぶりに良かったものの、お客さんの数は200人程度でした。集客力を人気のバロメーターと思っている私は自分の存在に陰りを感じてきていました。

☆まつなが・みつひろ 1966年3月24日生まれ。89年10月6日にFMWのリングでプロレスデビュー。数々のデスマッチで伝説を作り、2009年12月23日に引退試合。現在は現役時代に開店した人気ステーキハウス「ミスターデンジャー」(東京・墨田区立花)で元気に営業中。

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