日本ハムが経験した“暗黒時代” ドラフトで6人指名も4人が入団拒否した45年前

日本ハムのチーム統轄本部長を務めた三澤今朝治氏【写真:本人提供】

1976年ドラフト指名選手で入団したのは4位と6位の2人だけだった

北海道移転後18年目のシーズンを迎える日本ハム。今や地域に根差した人気球団になったが、過去にはドラフトで6人指名して2人しか入団しないという屈辱的な年もあった。現役引退後にスカウトを長く務め、北海道移転時にはチーム統轄本部長を務めていた三澤今朝治氏が“暗黒時代”の苦労を語った。【石川加奈子】

球団が日拓ホームフライヤーズから日本ハムファイターズに変わった1974年を最後に現役引退した三澤氏。「当時の球団社長の三原(脩)さんから『球団に残って何かやりたいことはあるか?』と聞かれて、スカウトをやらせてくださいとお願いしました。どうやって選手を見つけてくるのか非常に興味がありましたから」と翌年スカウトに転身した。

当初5人いたスカウトは、様々な事情が重なって翌年3人に減った。さらに翌秋には1人がコーチに転身し、1976年のドラフト会議後の交渉はスカウト部長とスカウト2年目の三澤氏の2人で担当することになった。

その年に指名したのは以下の6選手。1位:黒田真二投手(崇徳高)、2位=藤沢公也投手(日鉱佐賀ノ関)、3位=末次秀樹捕手(柳川商高)、4位=大宮龍男捕手(駒沢大)、5位=柿田登外野手(宇部商高)、6位=下田充利投手(東岡山工高)。

この中で入団したのは、三澤氏が担当した4位の大宮捕手と6位の下田投手の2人だけだった。「ひどいですよね。今だったら大変なことです。当時も大変だったんですけどね。1位の黒田は甲子園(1976年選抜)の優勝投手。野球部長は年配で優秀な方だったんですけど、うちはあまり視察に行ってなかったみたいで。大沢(啓二)監督と一緒に挨拶に行ったら、『大沢なんて知らねえ』と言われて、今度は大沢さんが怒っちゃってね」と苦笑する。

かつては強かったセ・リーグ志向「日本ハム? 関係ないよ」と言われたことも

ドラフトで2人しか獲得できないとはチーム編成上死活問題だが、当時はドラフト外でも入団できるルールがあった。幸いその年のオフには、ドラフト外で入団した島田誠外野手は1年目から戦力になった。

「在野に埋もれていて、誰も目を付けていない選手がプロ野球で活躍する。そういう素材を探すのが本当のスカウトの目。ダイヤの原石を探したい」とスカウトを志した三澤氏にとって、獲得したドラフト外選手の活躍はこの上ない喜びだった。

例えば、巨人・原辰徳監督の東海大相模高時代の同期で控え投手だった岡部憲章投手は1981年に13勝2敗、防御率2.70で最優秀防御率のタイトルを獲得した。船橋法典高から入団した松浦宏明投手は1988年に15勝を挙げ、最多勝に輝いた。

ドラフト外に力を入れざるを得ない状況もあった。「セ・リーグ志向が強くて。パ・リーグでも西武なんかは人気があったんですけどね。逆指名制度の頃は、最初から相手にされなかったですよ。『あぁ日本ハム? 関係ないよ』と言われて。どうしても欲しいからと何回も何回も足を運んでも答えをもらえなかった。アマチュア時代に名の売れた選手は獲れなかったです。どこに行ってもいいと言う選手とか、何回も説得すれば可能性があるような選手、素材というか将来性のある選手を獲るしかなかった」と悲しい時代を振り返る。

逆指名制度、自由獲得枠制度、希望入団枠制度と名前を変えた制度は2007年から撤廃された。日本ハムも2004年の北海道移転と同時に「スカウティングと育成」を掲げ、実力と人気を兼ね備えた球団へと成長。ドラフト戦略も「その年の一番いい選手を獲る」と強気の姿勢に変化した。

昨秋のドラフト会議では、相思相愛の1位指名となった伊藤大海投手が満面の笑みを浮かべ、子供の頃から日本ハムファンだったという6位の今川優馬外野手は涙を流して指名を喜んだ。「あの時代を思うと、今はいい時代になったなと思いますよ」。三澤氏は笑みを浮かべて、しみじみと語った。(石川加奈子 / Kanako Ishikawa)

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