武道場に集合。カーテンが引かれ、真っ暗だった。上官「新しい特殊な兵器ができた。出撃したら生きては帰れない」。「回天」「震洋」…海の特攻志願だった〈証言 語り継ぐ戦争〉

虎が描かれた千人針を今も大切に保管する松江忠茂さん=鹿児島市伊敷台6丁目

 ■松江忠茂さん(94)鹿児島市伊敷台6丁目

 旧制大島中学校(現在の奄美市・大島高校)4年生の時に志願し、海軍の第13期甲種飛行予科練習生となった。操舵(そうだ)手だった父の徴用船が敵魚雷にやられ、学費を出せなくなったから。1943(昭和18)年12月、三重海軍航空隊奈良分遣隊に入隊した。13期の同期は前後期合わせて約2万8千人に上ったが、水上・水中特攻、航空特攻で命を落とした戦友は少なくない。よく生きてこられたと思う。

 奈良県天理市にあった奈良分遣隊は天理教の建物を使用した。入隊前に言われた通り、モールス符号と軍人勅諭を全て覚えていき、同期に差を付けることができた。厳しい訓練生活だった。

 44年8月、武道場に集合との号令がかかり、練習生全員がびっしり集まった。戸や窓を全て閉め切った上、カーテンも引かれて真っ暗。何事かと思ったら、上官が「新しい特殊な兵器ができた。特殊な船だ。若い人が必要だが、出撃したら生きては帰れない。必ず死ぬ」と告げた。

 それでも志願する者は、用紙に名前や分隊名などを書いて提出するよう求められた。どれだけの人が志願したか分からないが、ほとんど応じたのではないか。志願しなければ後が怖い。私ももちろん志願した。死ぬのが当然だと思っていた。それほど生死について深刻に考えていなかった。

 人間魚雷「回天」や特攻艇「震洋」などの搭乗員募集だったようだ。戦後、同期の分隊会記念として作成された冊子によると、44年秋以降、奈良から続々と海の特攻の訓練先に配属されている。私は長男で、ほかに男のきょうだいがいなかったので、選ばれなかったのではないか。

 44年11月、約550人は奈良から中国の上海航空隊へ配属となった。偵察術の飛行術練習生(飛練)としては東洋一とされていた。神戸から「吉林丸」に乗り込み、2週間ほどかけてたどり着いた。この船は翌年、米機雷に触れて沈没した。

 41期偵察術飛練として入隊したが、乗る飛行機はほとんどなく、一度も実際の飛行訓練をした覚えがない。広い滑走路で飛行作業していても、すぐに敵機の機銃掃射に襲われた。隠れる場所もなく、地面にじっと伏せて見ているだけ。通信や航法など偵察術の訓練が主だった。

 冬の上海は寒く、プールのように広い風呂に入っても、部屋に戻るまでに体が冷えてガタガタ震えた。体が小さかったからか、成績が良かったからか、何かと周りの環境に恵まれた。

 現地では兵士の首に懸賞金がかかっていると言われ、引率付きの外出しか許されなかった。あまり外には出られなかったが、一度だけガーデンブリッジを見たことを覚えている。

予科練に入る前、親族らが寄せ書きした日の丸の旗=鹿児島市伊敷台6丁目

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