2年で戦力外も「良かった」 青年実業家となった「松坂世代」野手の“華麗な転身”

元中日・湊川誠隆氏【写真:小西亮】

慶應大から2002年のドラフト8巡目で中日に入団した湊川誠隆氏

黒や白を基調としたシックな服装と、柔和な表情。穏やかな口調は“社長然”というより、よき兄貴分といった雰囲気が漂う。今年で41歳を迎える、いわゆる「松坂世代」。中日のユニホームを脱いで17年が経つ元内野手はいま、ビジネスの舞台で動き回っている。「何かやってないと、体がムズムズしちゃう感じがして」。そう笑いながらも目の奥に宿る野心に、ようやく青年実業家の面影を見つけた。【小西亮】

名古屋の繁華街・栄。百貨店が並ぶ大通りから一本入った先にアパレル店舗を開いて、8年が経った。隣接する物件では今春、新たにコーヒーショップを本格稼働させた。「自分の好きなことをやっています。そうじゃなきゃ、続かないかな」。湊川誠隆さんの言葉に、力が込もる。現役引退後、ここまでの歩みは決して一筋縄ではなかった。

愛知の名門・東邦高から慶應大に進学。東京六大学リーグでは、3年秋と4年春に二塁手でベストナインに選ばれた。2002年のドラフトで8巡目指名され、地元の中日に入団。当時のチームは二塁に荒木雅博(現1軍内野守備走塁コーチ)、遊撃に井端弘和(現侍ジャパン内野守備走塁コーチ)と不動の存在がいる状況で、黄金期へと向かっていく最中。なかなかチャンスは巡ってこなかったが、“期待の若手”の位置に入っているとは思っていた。

待っていたのは、たった2年での戦力外。1軍舞台に立つことも叶わなかった。「他にクビにする選手がいるはず」。通告直後は、理解に苦しんだ。いくら大卒とはいえ、最短でも3年は時間をくれる世界だと思っていた。「自分がずっと大事にしてきた宝物を奪われる気持ちでした」。再起をかけて臨んだトライアウトでは、生まれて初めて打席で足がガタガタと震えたのを今でも鮮明に覚えている。

それでも、すぐに自らを客観視できたことが救いだった。「自分に絶対的なものがあれば残っている。天秤にかけられるような選手なんだと」。少年時代から目指してきた夢に区切りをつけるのは容易くなくても、その切り替えこそが“第2の人生”へのスタートダッシュでもあった。中日退団後の2005年にイタリアリーグに挑戦したが、2年限定だと決めていた。

「30歳までに、自分の中で核となるものをつくりたいと思っていました」

アパレル業界で活躍する湊川誠隆氏【写真:小西亮】

独学でデザインの知識を身につけ、自らの足で取引先を開拓する日々

目をつけたのは、アパレル。もともとファンションやデザインには興味があった。「好きなことだったら、たとえ辛くても続けられるかなと」。投げ出さない執念は、野球で学んできた。知り合いから請け負った野球関係のグッズのデザインや制作から始まった第2の人生。立ち上げた会社「マッシモンテ」には、イタリア語で“最大”を表す「massimo」と“山”の意味の「monte」を掛け合わして思いを込めた。

独学でデザインの知識をたたき込み、自らの足で縫製工場を訪ねて開拓していく日々。「やっぱり自分から行動を起こさないと、相手には伝わらないですから」。決して大袈裟でなく、寝る間も惜しんで働いた。徐々に仕事の幅は広がり、6年がたったころ、念願の店舗「NEXT THING」をオープンさせた。

米ニューヨークで買い付けた服を販売しながらも「人が作った物ばかりを売っていても面白くない」と店名を同じ独自ブランドも展開。6年間で培ったデザインの力や取引先とのつながりが大いに生きた。今では、交友のあるプロ野球選手らがよく着用してくれている。昨年の新型コロナウイルス感染拡大時には、いち早くマスクの制作にも着手した。

アパレルが主軸としてある一方、地元テレビ局の野球解説者や中日のジュニアチームの監督も務める。2019年12月にはYouTubeチャンネルを立ち上げ、今春からコーヒー店も開くなど多方面で精力的に動く。気がつけば、NPBの舞台に別れを告げてから17年。あの時から変わらない思いがある。

「2年で戦力外になったことが、良かったなと思える自分でいたいんです」

好きな言葉は「I’m on the right track」。いま、正しい道を進んでいると信じ、ビジネスという“山”を地道に登り続けていく。(小西亮 / Ryo Konishi)

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