バルセロナ五輪の柔道男子71キロ級金メダリストの古賀稔彦さんが24日、53歳の若さで亡くなった。五輪に3大会連続で出場、現役引退後は日本女子代表のコーチや、自身の道場「古賀塾」で後進の指導に努めた。芸術的な一本背負い投げを得意とし、「平成の三四郎」の異名で知られる古賀さんの軌跡をたどった。(47NEWS編集部)
古賀さんのキャリアの中で最も印象に残るのは、1992年バルセロナ五輪71キロ級で、膝に大けがを負いながら金メダルを勝ち取ったことだろう。現地到着後の練習で左膝の靱帯(じんたい)を痛め、十分な準備ができなかった。チームドクターが「普通だったら試合ができるかどうか微妙な状態」というほどのけがだったが出場に踏み切った。
古賀さんは「何とかやれました。みんなのおかげで頑張れました。やっと金メダルの念願がかないました」と喜びを語ったが、選手村の病院で診察を受けた結果、患部をギプスで固定し、自室での安静を命じられるほどのけがだった。
古賀さんは日本選手団の主将を務め、「自分がキャプテンになったからには、優勝しなきゃいけない、それが第一の務めだと思う」と大会前に話していたが、見事に約束を果たした。
古賀さんは佐賀県みやき町出身。小学生の時から柔道を始め、中学生の時に上京し柔道の私塾「講道学舎」に入門した。その後、日本体育大学に進み、五輪は88年ソウル、92年バルセロナ、96年アトランタと3回連続で出場。アトランタでは78キロ級で銀メダルを獲得した。世界選手権は89、91、95年に優勝している。
2000年の現役引退後は指導者の道へ。全日本女子柔道チームのコーチを務め、04年のアテネ五輪では指導した谷本歩実選手が金メダルを獲得した。
一方、03年には川崎市に「古賀塾」を開き、小学生を中心としたジュニア層の指導に力を尽くした。
07年には環太平洋大学(岡山市)柔道部の総監督に就任。10年の学生体重別柔道で教え子が初の栄冠を手にした。11年には女子7階級のうち3階級を制覇、全日本学生優勝大会団体女子では12、13年と連覇する躍進を遂げた。また、12年には入学当初に起きるスポーツ選手の練習意欲低下の研究で、弘前大学から医学の博士号を得ている。
長男颯人(はやと)さんと次男玄暉(げんき)さんも柔道選手として活躍している。