【伊藤鉦三連載コラム】荒れ狂った大豊が「一枝さんをぶっ飛ばす!」と部屋に…

1988年の新人入団発表で。左からドラフト2位の大豊、1位の今中、3位の山口幸司

【ドラゴンズ血風録~竜のすべてを知る男~(7)】中日ドラゴンズで35年間お世話になった私ですが、今考えても星野監督が指揮を執っていたときほど中日にいい人材が集まった時代はなかったと思います。

監督就任早々の1986年ドラフト会議で5球団競合の中からくじ引きで高校ナンバーワン左腕・近藤真一(享栄)を引き当てると、すぐに1対4のトレードで落合博満をロッテから獲得。87年ドラフトで立浪、88年には今中と大豊、89年には与田(現中日監督)と井上(現阪神ヘッドコーチ)、90年には矢野(現阪神監督)とその後、プロ野球界で活躍する選手たちがまるで何かに引き寄せられるように星野監督のもとに集まってきました。川上、岩瀬、福留、荒木、井端ら中日黄金時代を支えた名プレーヤーたちも第2次星野政権のときに入団しています。

中でも“当たり”だったのは88年のドラフトでしょう。1位指名の今中は93年に最多勝、最多奪三振、沢村賞、2位の大豊も94年に本塁打と打点王のタイトルを獲得します。

今中は伸びのあるストレートと90キロ台の大きなカーブのコンビネーション、抜群のコントロールでドラゴンズのエースに成長しましたが、特に素晴らしかったのが彼が持つ観察力と記憶力の良さです。「7年前の×月の××戦の×回、××にこの球種を打たれたんです」といったように過去の自分の対戦データをすべて記憶していたのにはビックリしました。

2001年に引退した今中ですが、12年に二軍投手コーチとして現場復帰し、翌13年には一軍投手コーチも務めました。現在は解説者ですが、投手の状態を見極める力は本物ですし、試合展開の読みも鋭くて“強竜復活”のためには欠かせない人材であると私は思っています。いつかまたドラゴンズのユニホームを着てほしいと思います。

一方の大豊はとにかく真面目でした。時間があれば常にバットを振っている。王さんを尊敬していて本を読むときも子供を抱いてあやすときも一本足で立ち、王さんと同じ一本足打法を完成させた男でした。

ただ頭に血が上ってカッとなると自分を抑えることができなくなります。ナゴヤ球場の駐車場でファンともめたり、ナゴヤドームのグラウンドからヤジを飛ばしたファンのいる観客席に向かってバットを投げつけたこともありました。

実は大豊は90、91年にヘッドコーチを務めた一枝修平さんとの関係が悪くなった時期がありました。ビジターの横浜戦が終わった後のこと。試合中に一枝ヘッドから何か言われたことにカチンときたのでしょう。ホテルに戻った後「一枝さんをぶっ飛ばす!」と荒れ狂っていたのです。一枝さんの部屋にまで乗り込んでいきそうなけんまくでしたが、島野外野守備コーチと私がなだめて何とか事なきを得たということもありました。

大豊は15年1月に白血病のため51歳の若さで亡くなりましたが、ナゴヤ球場のライトスタンドへホームランを叩き込んだ豪快なバッティングを多くの中日ファンは忘れていないと思います。

☆いとう・しょうぞう 1945年10月15日生まれ。愛知県出身。享栄商業(現享栄高校)でエースとして活躍し、63年春の選抜大会に出場。社会人・日通浦和で4年間プレーした後、日本鍼灸理療専門学校に入学し、はり師・きゅう師・あん摩マッサージ指圧師の国家資格を取得。86年に中日ドラゴンズのトレーナーとなり、星野、高木、山田、落合政権下でトレーナーを務める。2005年から昇竜館の副館長を務め、20年に退職。中日ナイン、OBからの信頼も厚いドラゴンズの生き字引的存在。

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