小林克也のドミノ倒し、YMOからナンバーワン・バンドに至る怒濤のアーリー80s! 1982年 6月21日 小林克也とザ・ナンバーワン・バンドのファーストアルバム「もも」がリリースされた日

YMO「増殖」収録スネークマンショー、その声の主は?

西暦の3桁目が “7” から “8” に代わる頃のYMOにいちばん脳髄を刺激されたのは、間違いなく10代前半。1979年に中2だったわたしが手に入れたYMOの黄色いレコード『ソリッド・ステート・サヴァイヴァー』に、気が付くと3歳年下の小学5年生、弟がドはまりしていた。

その声の主のドミノを最初にわたしがパタンと倒したのは、YMO『増殖』。1980年、中3のある日、弟が親にねだって買ってもらったものだ。赤いダンボールの額縁にちょっと小っちゃいレコード盤の入った、岸田劉生「麗子像」や楳図かずお「まことちゃん」を彷彿とさせるビジュアルの人形がズラリと並んだLP盤。欲しかったけれどその月のお小遣いをすっかり使い切っていたわたしにとって、有難いサプライズだった。

『増殖』のA面に針を落とすと1曲目「Jingle“Y.M.O”」にかぶせて飛び出す英語のナレーション。その後も数多の「スネークマンショー」や「TIGHTEN UP」にも登場する。テープに落としてラジカセで聴いているうちに内容も自然と覚えた。

2枚目のドミノはテレビからだった。『THE MANZAI』を観ていて気が付いた。漫才の前説で英語喋ってるの、スネークマンショーの英語の人とちゃうか?

『増殖』のスネークマンショーのギャグにケラケラ笑いつつも、周囲にはスネークマンショーのことを話せる相手が弟くらいしかおらず、もっぱら『増殖』やその後にラジオで流れた「ごきげんいかが1・2・3」をエアチェックして、こっそり聴いていた。こうやってドミノはパタン、パタンと倒れていく。この時点ではまだ、わたしはその声の主の名前を知らなかった。

ラジオで判明したスネークマンショーの正体、その名は小林克也

山下達郎さんの曲がDJスタイルで紹介されるアメリカのラジオ番組のような音源を聴いたのは、レコード店か喫茶店だったかで「タァツロゥヤマァシタ」という独特のトークを最初に聴いてからしばらく経った1981年、高1の夏休み。NHK-FMで山下達郎さんが『サウンド・オブ・ポップス』で小林克也さんをゲストに迎えた放送を聴いていた(これは今でもYouTubeで聴ける)。

その特集で件の音源が『COME ALONG』であることを知り、スネークマンショーをやっていた人だとも判明し、わたしの中で小林克也さんという名前と声がスコーン!と一致した瞬間。日系人と思いきやバリバリの日本人だった。そして普通に話す声も、とてもダンディーなこと。

ラジオの翌日、1980年3月21日発売から1年5か月近く経った『COME ALONG』のカセットテープをレコード屋に買いに行くと、案の定売り切れていた。色違いのドミノがバタバタ倒れていく。

山下達郎の音楽をリゾートミュージックに概念づけた小林克也のトーク

RCAイヤーズの山下達郎さんの音楽をリゾートミュージックと概念づけたのは間違いなく小林克也さんのあのトークだとわたしは信じている。カセットのB面は「KIKI Station Side」と称されたハワイの架空のラジオステーション仕立て。

これを聴いていたら湘南も、須磨も、能登の千里浜ドライブウェイもあっという間にハワイになってしまう。音質的にある程度難があることを達郎さんが後年『COME ALONG』のライナーノーツで書いているが、歌とサウンドを引き立てる小林克也さんのトークがそんなもんどうでもええやん、と海から吹く風の如く吹き飛ばす。山下達郎さんの歌はもちろん、こんなご機嫌なサウンドとトークのコラボレーションは世界中にこれ以上ないだろう。それぐらいしあわせなアルバムだと思っている。

そして、このトークの主が同時期にスネークマンショーでギャグを連発していたり、ラジオでのDJはもちろん、「百万人の英語」で英語の先生をしていた、といった落差がたまらない。

これが小林克也!土曜日の夜は「ベストヒットUSA」

バタバタ倒れる次のドミノは土曜夜中のテレビ『ベストヒットUSA』。まだミュージックビデオがミュージシャンの演奏の様子メインだったが、ダリル・ホール&ジョン・オーツの「プライベート・アイズ」の手を叩くビデオが話題になり始めた1981年秋。

夜中のテレビで、軽快な音楽にのせてレコードジャケットがドミノの如くバタバタ倒れるオープニング。なに、なに? なに! と見ていたら聴き覚えのある声で「BEST HIT USA! こんばんは、小林克也です」と始まった。

これが小林克也さん! 本当だ、日本人だ。見た目全然アメリカーンでもない普通の日本人が、あの語り口でウルフマン・ジャックスタイルで喋るのは少し不思議だった。毎週土曜日の夜はテレビの前にかじりつくようになったのは言うまでもない。マイケルもワム! もデュラン・デュランもライオネル・リッチーもマダーナ(あえてこう書く!)も、『ベストヒットUSA』でほんとうによく観た。

桑田佳祐ともコラボ実現「嘉門雄三 & VICTOR WHEELS LIVE!」

ドミノはまだまだ倒れる。1981年12月に渋谷Egg-manでライブレコーディングされた『嘉門雄三 & VICTOR WHEELS LIVE!』。嘉門雄三こと桑田佳祐さんがこのライブで『ベストヒットUSA』的なものをやりたかったということで、VJを務めていた小林克也さんをDJ役にオファーしてこのライブが実現した。

小林克也さんはオープニングから派手にぶちかまし、A面2曲目の「Raggae Man」では3コーラス目で乱入し桑田さんとのコラボレーションを見せ、B面3曲目「Just Once」では『ベストヒットUSA』ばりの曲紹介をしている。

話は若干逸れるが、この「Just Once」での桑田さんのヴォーカルがオリジナルのジェームズ・イングラムよりもブルージーでエモーショナルなのがたまらない。このライブはアルバムとして1982年3月21日に発売された。

その4か月後の1982年7月21日、サザンオールスターズのアルバム『NUDE MAN』の1曲目「DJコービーの伝説」。桑田佳祐さんが「あなたならウルフマン・ジャックStyle, OK」と歌うこの曲でもウルフマン・ジャックばりの小林克也さんのDJが後ろで聴こえる。そういえば、桑田さんは1979年の「お願いD.J.」でウルフマン・ジャック風に喋る小林克也さんの真似をしていた。これ以降、桑田佳祐さんとは縁を深くしていくことになる。

ザ・ナンバーワン・バンドで音楽活動!ファーストアルバム「もも」

ドミノは現在までも倒れ続けているが、ザ・ナンバーワン・バンドのことをこのコラムの最後に。

ザ・ナンバーワン・バンドは、小林克也さんのTumblrによると「スネークマンショーがバカ売れしてる頃、FM局のロビーでよく会ってた佐藤輝夫と今度バンドやる? ってその場で決めた」とのこと。それで「ウソみたいな勢いで2枚のアルバムができた」そうだ。

その1枚目が1982年6月発表の『もも』。「うわさのカム・トゥ・ハワイ」はジャパニーズラップの先駆けともいえる名作。「来んさい 来んさい ハワイに来んさい」と広島や熊本出身の爺ちゃんに扮し、小林克也さんが生まれた1941年に起こった真珠湾攻撃、日の丸エアープレインのことまで軽快なラップに乗せてその時代に連れて行ってくれる。

続く「アメリカン・ラヂオ」はマイケル・ジャクソンの「ロック・ウィズ・ユー」そっくりのドラムからアース・ウィンド&ファイア「レッツ・グルーヴ」のベースに乗せて、様々なアメリカンミュージックをEVEのコーラスとラジオのチューニング音と小林克也さんの何人にも化けるDJでスターズ・オン風に繋ぐ。

まだまだあって、桑田佳祐さんとデュエットした「六本木のベンちゃん」をはじめ、鈴木雅之さんがコーラスアレンジを担当し、シャネルズをコーラス隊に従えた甘々な「Moon Like a Peach」は台詞がたまらない。他にも、聴いていると赤面する、お子様には刺激が強い「最新アメリカ式美容体操(桃を食べよう)」だったり、「ダイアナ」をニューウェイヴに仕立てたり、「ホンキー・トンク・ウィメン」をレゲエアレンジしたり… と、多彩な顔を見せる小林克也さんを体現したアルバムで、音楽と社会風俗と笑いとエロの果肉がギッシリつまっている。それが『もも』だ。

そして、2枚目のアルバムは、ロック度を増した1983年発表の『東京あたり』。このLP盤のオビは衝撃的で、記載内容はここではとても書けない…。

わたしが最初にその声に気が付いてから41年。ずっと彼の声で、ここではないどこかに連れて行ってもらっているような気がする。

小林克也さん、ありがとうございます。そしてお誕生日おめでとうございます。

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カタリベ: 彩

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