小雨ふる後楽園球場、ピンク・レディーの解散コンサートは二人の出発だった! 1981年 3月31日 ピンク・レディーの「解散コンサート」が後楽園球場で開催された日

小雨の中でのさよなら… ピンク・レディー解散

今から40年前の1981年3月31日、ピンク・レディーの解散コンサートが後楽園球場で行われた。

みぞれ混じりの雨が降る悪天候で、観客動員数は主催者発表では30,000人とされているが、実際は15,000人程度であったという。一時代を築いたアイドルの幕引きとしては寂しいものだったと伝えられているコンサートである。

実は、ピンク・レディーは1978年にも後楽園球場で『’78ジャンピング・サマー・カーニバル』というコンサートを開催している。この時は30,000人のキャパシティが瞬く間に埋まり、チケットを手に入れられなかったファンが後楽園球場に殺到。暴動が起きかねない状況に、警察と後楽園球場関係者が翌日も開催することを決め、急遽2daysになったと言われている(しかし1978年は、紅白歌合戦辞退によりピンク・レディー人気の急落が決定的になった年であり、この後楽園コンサートは転落直前の絶頂、観覧車が天辺に上りつめた瞬間のようなものだったとも言えるが)。

約70,000人との真夏の夜のカーニバルから、15,000人との小雨の中でのさよならへ。この間たった3年しか経っていない。ブームとは一体何なのだろうか。

雨の後楽園球場での解散コンサートは、ピンク・レディー出発の象徴

ピンク・レディーが人気を持続させることができなかった理由として、紅白歌合戦の辞退やアメリカ進出、恋愛トラブルでマスコミから激しいバッシングを受けたこと、そして子供に向けた売り方をしたことが挙げられる。

絶頂期のピンク・レディー人気を支えていたのは主に子供たちであり、1978年のオリコン調査によると、ピンク・レディーの支持層は3歳~12歳が42.5%を占めていたという。飽きっぽく移り気な子供達がメインのファン層だったために、息の長いファンがつきにくかったというのだ。

それでは、ピンク・レディーが子供たちをターゲットにしたことは失敗だったのだろうか。そもそもピンク・レディーは何かを失敗したから人気が落ちたのだろうか。私はそう思えないのだ。雨の後楽園球場での解散コンサートは、ピンク・レディーの衰退の象徴ではなく、出発の象徴だと思うのだ。

魅力的なお姉様たち、平成生まれにとってのピンク・レディー

その理由についてお話しする前に、1994年に生まれの私にとって、ピンク・レディーがどんな存在だったか、少し語らせていただきたい。

インターネットとTSUTAYAのレンタルCDを経由して小学4年生の時にピンク・レディーのファンになった私は、ピンク・レディーを漫画のキャラクターのように愛していた。

夢のようにフォトジェニックな写真と、美しくユニゾンする歌声を残した魅力的なお姉様たち、という印象だった。好きな曲は『千の顔を持つ女』。よく真似して歌っていたのは『キャッチ・リップ』(リアルタイム世代ではないことがよく分かるでたらめなラインナップであろう)。

テレビ番組で昭和の曲特集があると、必ずピンク・レディーが取り上げられ、当時の熱狂ぶりが語られた。平成生まれの私がブームと認識しているものとは別物のような爆発する社会現象。沢山の人々の感情のうねりを、眩しくも少し恐ろしい物のように感じていた。

そんな中でも単純に「いいな!」と思えたのは、当時の子供のカルチャーにピンク・レディーがあふれていた様子だ。ピンク・レディーの写真やイラストをあしらった玩具やお菓子や文房具。学習雑誌の表紙もピンク・レディー。仲良しの友達とピンク・レディーを結成し、ふりつけを覚えては踊っていたので、昭和40年~昭和45年生まれの女性たちはほぼ誰でもピンク・レディーのダンスが踊れるという話には、心からワクワクした。

子供時代にこんなに魅力的なコンテンツが自分たちのために存在していたら、それはそれは楽しかっただろう。阿久悠と都倉俊一によるドラマチックな楽曲。奇想天外なテーマ。土居甫の魅力的な振り付け。それを覚える嬉しさ。一流のクリエイター達が、自分たちの方を向いてすごい勢いで作品を作ってくれたこと。ピンク・レディーの楽曲にふれると、現在アラサーの私でさえ「ピンク・レディーになりたい!」と思って心がふるえる。

ピンク・レディーがいなかったら、ボディコンブームはなかった?

子供たちは、確かに消費者としては気まぐれで残酷だったかもしれない。しかし、ブームが去った後も、子供達の人生には無意識的にも意識的にも、ピンク・レディーの大きな影響が残り、新しいムーヴメントを作ったのではないかと思う。これはすごいことだ。

例えば、私はピンク・レディーがいなかったら、80年代後半から90年代初頭のボディコンブームもなかった、という説を密かに提唱している。

ボディコン服に身を包んでいた彼女たちは、ちょうどピンク・レディー世代の女の子たちだ。身体にぴったりフィットした派手なミニの衣装には、少女時代のピンク・レディーへの憧れが背景にあるように思う。ディスコであんなに踊れたのは、振り付けの練習で鍛えていたからかも。

美魔女の実践者、ピンク・レディーから未来人への贈り物

また、“美魔女” ブームにもピンク・レディーの存在は関わっているだろう。美魔女という言葉は、2008年に光文社のファッション誌『STORY』に初めて登場し、2010年には商標登録されるほど認知度を高めるが、2010年頃と言えば、ピンク・レディーが5度目の再結成を果たし、当時と変わらない体型とミニの衣装で100箇所200公演のツアーを行い世間を騒がせた時期だ。美魔女という言葉が、年齢を超越した美しくパワフルな存在を指すとしたら、ピンク・レディーはまさに完璧な実践者であり先駆者だ。美魔女たちもまたピンク・レディー世代の女の子たちであった。

ピンク・レディーは、女性であることを思い切り楽しむこと、時の流れに負けないことを当時の子供達に教えていたのではないかと思う。それは、新しい可能性の提示であり、未来の人への贈り物だったと思う。

ピンク・レディーをリアルタイムで経験したファンの子供たちが、正直羨ましい。それは、子供時代が最高に楽しそうだからというだけではなく、ピンク・レディーと一緒に年齢を重ねることができるからだ。

あの時、ピンク・レディーが子供の方を向いたことは間違いではないと思うのだ。何も間違っていなかった。

充分に時間が経ってからでないと物事の意味は分からない

最盛期は、一日の平均睡眠時間が45分で常に微熱を出していたというピンク・レディー。これがずっと続くと思ったら耐えられなかった、いつも「早くブームよ去れ」と思っていた…… とケイは後から振り返る。解散は、二人が自分達の人生を生きるための、適切なタイミングの出発だったと思う。

解散コンサートの時、ミーもケイも23歳。ファンも子供だったが、ピンク・レディーも若かった。彼女たちの人生は、始まったばかりなのだ。

あの日のステージで、ディレクターに急かされて泣きながら「さよなら」を言った二人は、29年後、自分たちの意思で「解散やめ!」を宣言する。2018年のレコード大賞では生放送で6分30秒のノンストップメドレーを踊る驚異的なステージをこなし、2020年には光り輝く60代以上に贈られるベストプラチナエイジスト賞を受賞した。

充分に時間が経ってからでないと物事の意味は分からないところがある。

そのことを知っている私たちは、小雨まじりの閑散とした1981年3月31日の後楽園球場を、殊更に寂しい景色として振り返らなくともよいと思うのだ。

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カタリベ: 郷ルネ

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