戦力外の2日後に「日雇い派遣」 年下から指図され実感した“プロ野球選手の終わり”

中日時代の石川駿氏【写真:荒川祐史】

2020年限りで中日を戦力外、石川駿氏はこの春から専門学校へ

ユニホームを脱ぐ決断に迷いはない。ただ、少年時代から身を置いてきた野球の世界から放り出されることには覚悟が必要だった。周囲のイメージ通り、恵まれていたプロ野球。果たして、一社会人として生きていけるのだろうか――。この春から歩む第2の人生への不安を取り除くには、とにかく動くしかないと思った。【小西亮】

大学野球の強豪・明治大から社会人野球の名門・JX-ENEOS(現ENEOS)に進み、社会人日本代表も経験した。強打が売りの内野手は、2014年のドラフトで中日から4位指名を受けて入団。大ベテランの域に入っていた荒木雅博(現1軍内野守備走塁コーチ)の後釜として期待されたのが、石川駿氏だった。

ルーキーイヤーは開幕前に腰痛で離脱。1軍出場なしに終わった。2年目に1軍デビューを果たし、3年目には開幕1軍もつかんだが、相次ぐ故障が最後まで足を引っ張った。6年間で通算31試合出場、41打数10安打、1本塁打、6打点。とことん理想型を追い求め、昼夜を問わずバットを振ってきたが、もう気持ちがついてこなかった。

昨年11月3日に球団事務所に呼ばれ、戦力外を通告された。「もう野球はお腹いっぱい」。現役には未練はないと、問われた報道陣に答えた。それからわずか2日後。引退決断の余韻を感じる間もなく、名古屋市内の派遣会社に登録した。「プロ野球選手をやめた時に、1番やってみたかったのがアルバイトなんです」。決して遊び半分ではない。確固たる理由があった。

「自分が今までいた世界がどれだけ恵まれているか。その世界がもう終わったんだと自分に分からせるためには、まず働いてみることだと思いました」

みっちり働いて1万円にも満たない日給「稼ぐのがどれだけ大変か」

思うように活躍できなくても、一般会社員の平均より高かった年俸。練習着やユニホームは勝手にクリーニングされて戻ってくる。グッズの売り上げやメディア出演などによって、細かな収入もあった。いつまでもそんな感覚でいれば、常識外れのレッテルを貼られて社会からはじかれる。だからこそ、現実を直視した。

登録から1週間後、とある工場の荷物整理に向かった。一緒に働くのは、名前も知らない初対面の人たちばかり。年齢が一回り以上も離れた中年男性もいた。現場でリーダー的な役割を担う年下男性から「石川くん! これやって」と指示される。年功序列を順守してきた野球界では考えられなかったが、「わかりました」と頭を下げて応じるほかなかった。

みっちり働いて、日給は1万円にも満たない。「1万円を稼ぐのがどれだけ大変か。本当にいい勉強になりました」。物見遊山ではない、切実な実感がこみ上げる。30歳にして初めてのアルバイト。「本当に、いい勉強になりました」と糧にする。

新たな一歩への心構えを施し、この春から柔道整復師の資格を取得するため専門学校に通う。故障が多かった自らのプロ人生を教訓にしたい。さらに2月には、学生野球の指導者になるために必要な資格を回復。学生の傍ら、週末は指導者として精を出すつもりだ。「野球しかやってこなかったので、まずは今までの経験を生かせることをやっていければと思います」。その晴々とした表情こそ、プロ野球選手の終わりの証明だった。(小西亮 / Ryo Konishi)

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