クンデンの女性たちは自らの土地に鉱山を作らせないためにセメントで足を固めた。これが彼女たちの物語だ

この記事はThe Gecko Projectとの共同制作による。第2部第3部はこちらから閲覧できる。映画の視聴はこちらから。

静寂、繁栄、豊穣。こうした言葉が心に浮かんだのは、2019年のある日曜日の夜、インドネシアのジャワ島にあるトゥガルドウォ(Tegaldowo)村のある丘の頂きに立ったときだった。この言い回しは、肥沃な土壌と緑の水田、チーク森を抱く巨大な島を形容するのに使われてきた。しかしこの静けさは、より波乱に満ちた物語を隠している。

世界で三番目に大きい民主主義国であるインドネシアの各地で、大規模なデモが勃発している。[首都から]東に約3,000キロメートル(1,864マイル)のところでは、先住民族のパプア人に対する何十年にもわたる虐待に対する怒りが暴力にまで発展した。首都ジャカルタでは、数千人もの学生たちが街頭に出て、市民的自由の侵害が多くの人々によって懸念される新たな法案に抗議している。

新しい法律で最も論争の的となっている事柄の中には、自らの土地を奪う採掘企業とたたかう農民や活動家を非合法化することを、新法が政府に認めることになるのではないかという懸念がある。すでに何百ものコミュニティが、自分たちの森林を伐採し、自分たちの山を採掘し、自分たちの農地をプランテーションに変えた企業との一触即発の紛争で膠着状態に陥っている。こうした人々の多くは、ジョコ・ウィドド大統領が権力を持たざる者たちの側に立って状況を変えるであろうことを、かつては期待していた。

しかし、今後数ヶ月でそうした希望は打ち砕かれるだろう。政府は2020年11月までに、オリガーキー(寡頭制)の権力を強固にし、広大な熱帯雨林を含むインドネシアの環境を損なうことに責任を負う民間企業の力を擁護することになるであろう、オムニバス法を発効させる予定である。

私が立っている丘は、土地の権利と環境を守るたたかいに関与する多くのコミュニティと、非常に大きく反響し合っている。

レンバンのトウモロコシ畑。カルストは農地の灌漑用水を供給する。写真:Leo Plunkett for Mongabay and The Gecko Project.

この丘はただの丘ではなく、カルスト地形である。カルスト地形は北クンデン山地を支え、東西に180 km(112マイル)広がる石灰岩の層を成している。岩は時間の経過とともに溶食され、地下の洞窟と湧水から成る広大で入り組んだ地下水脈を形成し、一年中この地域の人々にきれいな水を提供してきた。

クンデンの先住民は、カルストをかれらにとっての「母なる大地(Ibu Bumi)」と見なしている。かれらの伝承では、大地の母は土地を育み、母乳を与え、人々が米やその他の作物を育てることを可能にする。

「母なる大地は与えた。母なる大地は傷ついた。母なる大地は裁きを求める。」歌うのは私を案内する農民のスキナ(Sukinah) だ。私たちを囲む畑のトウモロコシをつぶさに確認しながら歌っている。彼女はサンダル履きにクバヤと呼ばれる伝統的なジャワのブラウスを身につけ、きびきびと体を動かす。

この曲は、スキナと他の8人の女性農民からなる「クンデンのカルティニたち」として知られるグループの賛歌である。クンデンのカルティニたちは、彼女たちの土地のカルストから採掘された石灰岩をもとに操業されるセメント工場建設に対する抵抗を主導した。

社会的および環境的不公正の物語に満ちた国で、クンデンのカルティニたちは、ジャカルタの大統領官邸前で彼女たちの足をセメントで固めるという行為で世間の注目を集めた。有力政治家らのお墨付きを得た投資家たちとの闘いにおいて、ウォン・チリック(wong cilik)と呼ばれる「小さな人々」の絶望を鮮烈に象徴した、心の底からの抗議の表現であった。

私は、草の根活動家による運動を主導した女性たちに会うために、数百ものエスニック・グループと言語を擁する群島であるインドネシア各地を旅することにした。その旅の初めに訪ねたのがスキナだった。私は、この女性たちが立ち上がった理由と、土地の権利のためにたたかうことで、どのような壁にぶつかったのかを知りたかった。彼女たちは遠隔地の農村地域の農民や織工、あるいは主婦であったが、立ち上がってリーダーとなった。

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東のティモールから西のアチェまで、私が出会った女性たちは、土地の人々の文化と生活を守るために平和的な取り組みをしたことによって、脅迫を受け、暴力に遭い、刑務所さえも経験した。

彼女たちは、官僚制の不正と治安部隊の弾圧に直面しただけではない。女性たちを一段下にみなしてきた男性優位社会において、自らのコミュニティの内部での認識を得るためにもたたかった。女性として家族のために料理や掃除をする人であるからこそ、水が汚染され農地がなくなった場合の影響がどのようなものかが分かるから活動家になった、という事例を数多く見てきた。

本連載記事で登場する女性たち。左から、Farwiza Farhan、Aleta Baun、Sukinah、Patmi、Lodia Oematan、Eva Bande、右端はFebrianaFirdaus。画像:Nadiyah Rizki.

世界的に知られ、国際的な賞を受賞した女性もいる。しかしスポットライトが他のどこかに移った後に、何が起こったのかを知りたいと思った。私が知ることになったのは、身体的傷、機会の逸失、刑務所での年月、さらには大義のために命を失った友人たちの存在と、これらのことを通じて、活動に関わった年月の傷を未だに負っている人々が多いということだった。

女性たちと環境との揺るぎない文化的つながりについても、学ぶことになった。インドネシア各地で、家族をケアし、コミュニティの存続のために熱帯雨林、山、土地が重要であることを深く理解している女性たちと出会った。いたる所で自然界は女性的な形象を与えられ、女性たちはそのためにたたかっていた。

私の旅の物語を通して、読者のあなたをこうした女性たちの生まれ育ったホームに案内したい。そこでの彼女たちの生活と物語を見て、知ってほしいと思う。この旅は、クンデンのカルティニたちから始まる。

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セメント工場の計画によって運動の生活に駆り立てられる以前は、スキナは一農民で主婦だった。 写真: Leo Plunkett for Mongabay and The Gecko Project.

抗議行動が始まる前は、スキナは農村の女性のごくふつうだが厳しい生活を送っていた。午前4時には起床してすぐ台所に向かい、自分と夫のためにコーヒーを淹れ、ご飯を炊く。朝食が済むと、スキナと夫は畑に行き午後5時まで働く。一日の大半は外で自然と共に過ごす。収穫期には、夫と二人で畑の小屋に寝泊まりし、トウモロコシの刈り取りや米の収穫を終わらせた。

2014年、国営セメント会社セメン・インドネシア(PT Semen Indonesia)によるカルスト採掘計画がかなり進捗した段階にあることが村人たちの知るところとなり、運動が活発になっていく。その2年前、村人には知らされないまま、中部ジャワ州知事ビビット・ワルヨ(Bibit Waluyo)は環境ライセンスを発給していた。これは、会社が操業を開始するために必要となる最も重要なライセンスの1つだった。本来ならば、環境影響評価の一環としてコミュニティとの相談会を経てから発給されるべきものだった。

村人の一部は、早い段階で2010年に評価の草案を目にし、それが地下湧水の所在を特定していないことに懸念を表明していた。しかしその後、彼らは評価プロセスから排除されたことを2016年にインドネシア人権全国委員会(KOMNAS HAM)は報告している。

クンデンのカルストを特徴づける石灰岩は、セメントの主原料でもある。クンデン山地は1990年代から複数のセメント会社に目をつけられていた。2010年代になると、インフラへの政府投資に刺激され関心が高まる。

中央政府が委託した評価によると、北クンデン山地全体に住む50万人以上の人々のきれいな水に対する需要はすでに供給を上回る。カルストは水の供給を支えるために不可欠であり、乾季の間、きれいな水を放出するスポンジとして機能している。しかし、州政府は石灰岩の採掘を優先させてきた。企業が地下水系を掘り進めるにつれて、水の供給の大幅な減少と汚染とが脅威となっている。

ジャワ島に位置する北クンデン山地。ジャワ島はインドネシア諸島で最大の島の1つであり、国の政治的中心である。画像:Nadiyah Rizki.

工場がどのような意味を持つことになるかを知るために、村人たちは、セメン・インドネシアが1990年代初頭から工場を操業していた隣接するトゥバン(Tuban)地区を訪ねた。「トゥバンでの開発がすべてを破壊したことを、この目で見ました」とスキナは私に言った。「環境を破壊し、コミュニティ、文化、社会、すべてを破壊していたのです。」

鉱山の脅威は、すでに北クンデン山地全体で反対を引き起こしていた。2011年、数千人の村人がパティ地区の地方議会堂前に結集し、別の場所のセメン・インドネシア鉱山に抗議したことが伝えられている。その翌年には、3つの地区の人々が中部ジャワ州議会堂前に結集した。

2014年6月、セメン・インドネシアによる工場建設着工が目前に迫る中、スキナと他の女性たちは現地に行って阻止することを決意した。

「環境のためにたたかうのに、あなたが男である必要はありません」とスキナは私に言った。「特に、私たち女性がまず水を使って料理をしているから、一番初めに影響に気がつくのも私たち女性なのです。」

しかし、女性を最前線に配置するという決定は、起こりうる挑発に直面した際に、彼女たちが望む平和的抗議を維持するためだった。彼女たちは警察と対峙し、暴力の可能性に直面することを知っていた。

「男性が最前線にいたら、血気に逸って熱り立つでしょう」とスキナは言った。「女性たちは暴力を回避するために、状況をコントロールする必要があったのです。そうしなければ、殺される人もいたかもしれません。」

2014年11月、建設現場に向かう道で抗議の女性たちと小競り合いをする警察と軍隊。

その日が来ると、約100人の女性が建設現場に向かう道に結集した。それは平和的に始まったが、警察と軍は11月までに行動を終結させようとした。ビデオ映像は、女性が放り投げられ、プラカードが奪われる場面を映している。彼女たちは2年間に渡って抗議を続けることになる。

「当局やゴロツキからの暴力があっても、私たちは決して諦めませんでした」とスキナは私に言った。「私たちはやり続けました。なぜなら、これは私たちの子どもたちのためであり、未来の孫たちのためだからです。もしも山が傷つけられたら、それは私たちへの傷になるのです。」

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ほとんどのジャワ人がそうであるように、スキナはイスラム教徒である。しかし、彼女はまた、19世紀末にサミン・スロセンティコ (Samin Surosentiko)という宗教指導者の信奉者たちから出現したローカルな信仰である「シケップの同志たち(Sedulur Sikep)」 あるいはサミン主義の哲学にも帰依している。

この信仰に帰依する彼女の決意を理解するのは簡単だった。サミンの人々は、外部の権威に反対する長い伝統をもち、オランダの植民地行政によって課せられた税金、森林規制、官僚制に抵抗していた。彼らは、土地、水、森林は共有財産であり、共有物として用いられると信じていた。彼らは、国家がこれらの天然資源に対して国独自の管理を課すことができるという考えを拒否した。この考えは今日にも共鳴している。

トゥガルドウォの人々はイスラム教徒であることを自認し、サミン主義として知られるローカルな信仰体系にも帰依する。写真: Leo Plunkett for Mongabay and The Gecko Project.

現在の彼女の家の壁には、ジャワにイスラム教をもたらしたとされるワリ・ソンゴ(Wali Songo) 、又の名を「9人の聖人」の1人であるスナン・カリジャガ(Sunag Kalijaga)の大きな写真も目に入る。彼は非常に寛容な宗教的権威ウラマー(ulema)として知られており、芸術を通じてイスラム教を紹介した。彼は今日のインドネシアの宗教的自警団や保守的なウラマーとはまったく対照的である。

抗議行動の間、クンデンのカルティニはスナン・カリジャガ(Sunan Kalijaga)が作曲した有名な歌「リル・イリル(Lir-ilir)」を歌っていた。歌詞は、困難な時を生きのび、行動を起こすことで逆境に挑戦するよう参加者を鼓舞する。

女性活動家たちのアイデンティティを決定づけることになったのは、また別の影響力の大きい人物だった。「カルティニ」という名前の由来は、20世紀の始まりを生きた ジャワの貴婦人 で国家的ヒロインであるラデン・アジェン・カルティニ(Raden Adjeng Kartini)にある。カルティニの死後、残された手紙が1911年に『闇を越えて光へ』という書名で出版されると、女性の解放と教育に関する彼女の進歩的な思想は、インドネシアのフェミニストを鼓舞することになった。

2014年9月、レンバンの村人は、環境NGOのWalhiおよびスマラン法律扶助協会と共同で、政府を相手取ってセメン・インドネシアの環境影響評価を認可した件で訴訟を起した。この訴訟は、政府決定は、流域保全、とりわけカルストの保全を目的とした一連の規制に反するものであると主張した。しかし、司法制度の動きは彼らに反対しているようだった。Walhi代表によると 、2015年4月、本件は具体的内容を検討せずに、手続き的な理由から却下された。コミュニティは上告した。

2016年4月まで、建設作業が続行されていたほぼ2年の間、女性たちは工場の門の外で定期的に抗議行動を行なった。彼女たちは抗議をエスカレートさせることを決めた。スキナと他の8人の女性たちは、自らが前面に出ることにした。時間の経過によってグループのメンバーに入れ替わりがあったが、「クンデンの9人のカルティニたち」はずっと残ることになった。

乾季が始まったばかりのその月、クンデンのカルティニたちは、農村の家から西に500 km(311マイル)以上離れた、インドネシアの巨大首都ジャカルタのひしめき合い無秩序に膨張する大都市への旅に出た。

車、バス、オートバイが行き交う大統領官邸前で、クンデンの9人のカルティニは椅子に座り、セメントに足を埋めた。

ジャカルタの大統領官邸前でセメントで足を固めてデモを行う北クンデンの人々。

スキナに初めて会ったのは、彼女が四角い木枠に流し込まれたセメントの中に立っているときだった。涙が彼女の顔をゆっくり滴り落ちた。おそらく足の痛みのせいだったのかもしれないし、あるいは、政府に対する失望の念からの涙だったのかもしれない。2年前の大統領選挙で、彼女とその他大勢の地方の人々は、ジョコ・ウィドドが強力な企業に反対する彼女たちの立場に立つであろうことを期待して票を投じた。今、彼女は大統領官邸の前にいて、選挙キャンペーンでの大統領の公約が今でも実現されるであろうことを期待していた。

2016年8月、抗議が繰り返され、メディアの注目が高まるにつれ、ついに農民たちはジョコウィの愛称で知られる大統領と面会する機会を得た。農民たちはこの問題について、操業認可が不法になされていること、そしてセメント工場開発が彼ら地域の食料安全保障を損ね、進行中の対立を刺激するであろうことを説明した。大統領は会社の操業を凍結し、会社と農民の間の話し合いを促進することを約束した。彼は、北クンデン山地の保護地域と開発可能地域を策定する広域環境アセスメントを行うことを約束した。

しかし中部ジャワ州では、ビビットの後継者であるガンジャール・プラノウォ(Ganjar Pranowo)知事は、プロジェクトの中止が可能であるのか疑問を表明した。セメント工場はすでに95%完成しているではないか、と彼は記者団に語った

トゥガルドウォでのトウモロコシの収穫。 写真: Leo Plunkett for Mongabay and TheGeckoProject.

10月までに、彼らの長きに渡る法廷闘争は、知事とセメン・インドネシアに対する農民の訴えを支持するという最高裁判所の判決で最高潮に達した。前知事が承認した環境影響評価には欠陥があり、採掘が与える流域への深刻な被害を防ぐ手段を示すことができておらず、地域社会の意見を考慮していなかったという判断が示された。裁判所は州政府に環境許可を取り消すように指導した。

12月、数百人の村人がおよそ135km(84マイル)をかけてクンデンから州知事庁舎まで行進し、裁判所の決定が実施されることを祝い、要求した。しかし、長い行進で足首を腫らしたスキナたちが州知事庁舎に到着すると、一人の役人がこう告げた。最高裁判所判決の数日後、知事は無効になった認可を新たな認可に差し替えた、と。

知事の決定は人々の怒りを引き起こした。しかし、農民たちはさらにどん底に突き落とされることになる。

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2017年3月、クンデンのカルティニたちはセメントの足枷をしてジャカルタに戻ってきた。大統領からの約束と最高裁判所での勝訴を確保したが、セメント工場開発は依然として進行していた。抗議しか手段は残されていないように思われた。

ジャカルタでのデモを終え地元に戻る数時間前に亡くなったパトミ。 画像:Nadiyah Rizki.

デモを数日間続けた後、9人のうちの1人である48歳のパトミが村に帰る時が来た。彼女の足の周りのセメントはひび割れて開いた状態で、法律扶助協会の事務所まで行って休んだ。その夜、パトミはけいれんと嘔吐に襲われ、翌朝まだ早い時間に心臓発作で亡くなった。

このニュースはWhatsAppを通じて拡散された。クンデンのカルティニたちは、友を追悼し、精神的衝撃の只中にあったが、パトミの死を彼女たちのせいだと咎めるインドネシアの人々によるソーシャルメディア上のバックラッシュを受けた。

「先が見えない感じでした」とスキナは私に言った。 「私たちは姉妹を失い、そして多くの人たちから私たちの運動が批判されました。でも、私たちに何ができるというのでしょう?」

悲劇の翌日、3月22日、ジョコウィ大統領はクンデンのカルティニの1人であるグナルティ(Gunarti)と、大統領官邸で二度目となる面談に応じた。グナルティは、ジョコウィが第一回目の会合で約束したことをガンジャール知事が事実上無効にしたと大統領に説明した。しかし、大統領は態度を保留して、今まで再三再四彼女たちの要求を無視してきた知事と話をするべきだと提案した。グナルティは、セメント工場のプロジェクトを阻止する可能性が潰えつつある深い失望を、官邸前に詰めかけた記者団に話した。

パルミは、ジャカルタでのデモの期間、友人のパトミの世話を担当していた。写真:Leo Plunkett for Mongabay and The Gecko Project.

抗議行動の間、セメントが足枷になっているパトミに必要なことをケアする役割を務めていたのは、パルミ(Parmi)という名前の農民だった。トゥガルドウォで、パルミは私を村にある美しい木造の建物に案内してくれた。それはランガール(langgar)と呼ばれる小さな礼拝所で、パルミの友の思い出に建てられたものだった。

「礼拝所を建てることは、パトミの生前の夢でした」とパルミは私に語った。「パトミが息を引き取ってから、私たちは礼拝所を建てようと決めました。」

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今日、スキナと会った。3年前に会った時と彼女は変わっていない。しかし、スキナの家からは、カルストの上に建てられた巨大なセメント工場が視野に入る。セメント会社は、2017年に知事が発行した新認可によって「合法的」に操業している。

緩慢だが確実に、採掘はカルストの粉砕を始めている。しかし、スキナと他のクンデンの農民たちは、セメント工場を止めるために奮闘を続ける。スキナの家はキャンペーン本部として使われ、今日もそうであるように農民たちは集い、運動の絆を強める伝統的なジャワの儀式を執り行う。

私の訪問は、イスラム教断食明け大祭イドル・フィトリの7日目にジャワの人々が祝う、餅の祭宴の日に当たっていた。

祭宴はプノカワン(Punokawan)の上演から始まる。ジャワの人形劇では、プノカワンはスマル、ガレン、バゴン、ペトルの登場人物からなる。この餅の祭宴の一幕では、プノカワンの賢人かつ最年長のセマールが環境に配慮するように村人たちに警告する。

餅の祭宴のために着飾ったトゥガルドウォの男性。写真: Leo Plunkett for Mongabay and The Gecko Project.

次に、「グヌンガン」と呼ばれるトウモロコシを積み重ねてつくった山を担ぐ男たちのふたつの集団と一緒に、住民たちは村を練り歩く。かれらが歌うのは「母なる大地(Ibu Bumi)」だ。

夜に入っても祭宴は続く。スキナが女性農民のグループの先頭に立ち、竹の松明を手にした村人たちが後に続く。聖なる井戸に向かうかれらは、「母なる大地」を歌い続ける。

井戸を囲み、共に祈りを捧げた後、人々はスキナの家に戻り、餅を共に食べて祝う。

山のためにたたかうクンデンのカルティニたちの願いをくじく挫折は、ただの一つもなかった。パトミの死でさえ、究極的には女性たちに新たな一体感と決意をもたらした。

祝祭にてトゥガルドウォを練り歩く村人たち。写真: Leo Plunkett for Mongabay and The Gecko Project.

「私と他の姉妹たちにとって、パトミの死は光をもたらしたのです」とスキナは私に語った。「それは私たちの熱意に火を灯しました。私たちは黙っていてはならないことを知りました。私たちは弱い存在ではなく、負けるわけにはいかないのです。」

「なせなら、パトミは今でも私たちと一緒にいるからです。パトミの体は埋葬されたかもしれませんが、魂が葬り去られることは決してなかったのです。」

確かに、スキナの6年間の運動を振り返ると、挫折や絶望を経験することはなかった。彼女が経験したのは学びである。「私は学校に行ったことがありません。だから私は知識を求め、多くのことを発見しました」とスキナは言う。

彼女は、これまでの道のりで出会った環境保護活動家、弁護士、科学者といった人々、さらに村の外での経験を挙げた。それは彼女に幸せと誇りの両方をもたらした旅だった。

「一つ一つの道のりで、環境について理解を示す人々から私たちは学びました。」とスキナは言う。 「この人生の意味について、私たちは何のために生きるのか、ということについて。」

祝祭でのスキナ。 写真: Leo Plunkett for Mongabay and The Gecko Project.

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スキナとクンデンのカルティニたちに別れを告げる時が来た。トゥガルドウォから車を走らせ、セメント工場を通り過ぎる。人々の生活を方向づける開発プロジェクトに最も大きな影響を与えてきたのは、人々の意見、法律、科学、あるいは正しいことではなく、一人の知事の後押しであることが頭をよぎった。

彼女たちの運動は友愛についてである、という印象をもって私はクンデンを後にした。彼女たちのグループのすべての仲間は、友情を通して築かれた共通の目的と感情を持っていた。「シケップの同志たち」と呼ばれるローカルな信仰をもつ彼女たちは、姉妹のパトミを失った後も紐帯を保った。結局のところ、パトミの死は彼女たちをさらに強くさえした。

共に過ごした時間を通じて、彼女たちの生活と運動がいかに文化で満たされているのかを理解することができた。彼女たちの文化と運動はとても密接に結びついており、その二つを区別することは困難だった。その文化は、イスラム教とサミン主義、そして抵抗とが、美しく、独自で地域性に富んだタペストリーのように織り出されたものであり、過去と持続可能な未来のどちらにも向けられた信念であり、大規模な採掘産業による環境破壊とは全くもって対立する。

パトミはヒロインとみなされるべきだという確信もまた私の中に残った。パトミは、水の危機が引き起こされるであろうことを確信していたので、カルストを破壊から守るために自らの人生を捧げた。危機を知りながら、パトミは自らのコミュニティのために自身を犠牲にした。

私が懸念しているのは、大きな期待を背負って選ばれたジョコウィ政権が、この闘いを決して理解しないのではないかということだ。しかし、クンデンのカルティニたちを知ることは、未来へのかすかな希望を私にもたらす。つまり、彼女たちの生まれ育ち生きる土地(homeland)、そして私たちのそのような土地のために人々は抵抗し、たたかいを続けるだろう。スキナにとって、それ以外の選択肢はない。

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