
昭和の香りが色濃く残るストリップ劇場の閉館が続いている。かつては全国に400軒近くあったとされるが、今では約20軒と衰退の一途をたどる。時代の変化に伴い客は激減し、新型コロナウイルスの感染拡大で苦境に立たされる劇場も少なくない。芸術性の高い踊りや、物語性のある演出で女性客も増えつつあるが、特に地方の劇場は経営が厳しい。「失いたくない」。ストリップ劇場の灯を消すまいと、今日も各地で踊り子たちは舞っている。彼女たちの胸の内に迫った。(共同通信=松田優)
▽切なげに見えた笑顔
中国地方に唯一残る広島第一劇場。何度も閉館の危機を乗り越えてきたが、5月20日をもって46年の歴史に幕を下ろすことが発表された。
3月初旬に取材で同劇場を訪れると、出番前に楽屋で化粧をしながら、踊り子のゆきなさん(26)が口にした。「どの劇場で踊るときも、これが最後かもしれないという気持ちは常に持ってる。ゆくゆくはなくなってしまう文化であることを受け入れているから、一瞬一瞬を大切にしたい」

午後3時半、客席の年季の入った赤い椅子には、まばらに男性客が座る。鮮やかな黄色の羽織を着たゆきなさんが、たった一人、スポットライトを浴びていた。衣装の裾がふわりと客席をかすめ、甘い香りが漂う。照明を浴びて舞う姿が、観客それぞれの瞳に映った。
この日の出番を終えた午前0時ごろ、ゆきなさんは記者を行きつけの鉄板焼き屋に連れて行ってくれた。雨が降っていて、肌寒い夜だった。
「『受け入れてる』とか冷静に言っちゃったんですけど」。お好み焼きを待つ間、ゆきなさんが思い出したように切り出す。「さっき踊りながら、やっぱりこの場所はなくなってほしくないなと思っちゃった」
私服姿のゆきなさんが、照れたように笑った。ステージで舞う姿と違う表情は、少し切なげに見えた。
▽時代の流れ
ストリップは戦後間もなく誕生した大衆文化だ。踊り子は主に10日ごとに劇場を移り、旅をしながら全国各地で踊る。関東の劇場で十日間踊った翌朝に新幹線で移動し、午後からは関西や九州の劇場でまた十日間踊ることも珍しくない。地方の劇場の場合は、楽屋で寝泊まりすることも多い。
大衆芸能史に詳しい江戸川大教授の西条昇(さいじょう・のぼる)さんによると、全盛期の1960年代半ばから70年代の半ばごろには全国各地に400軒近い劇場があった。しかし、観客参加型の過激な演出に走る劇場が出始め、性風俗産業化が進んだ。85年に風営法が改正され取り締まりが強化されると、相次ぐ摘発や客足の低迷などにより劇場が激減。現在では20軒をきるまでになった。2000年代前半からは、テレビや雑誌などメディアで紹介される機会が減り、新たな若い男性客の獲得が難しくなったことも、大きな理由の一つだという。

▽AV女優の引退公演
西条さんは一方で、女性客が増えていると指摘する。東京の老舗劇場、浅草ロック座ではプロジェクションマッピングなど最新技術を取り入れながら、さまざまな踊りの場面で構成した「レビュー」仕立ての公演を行っている。西条さんは「源氏物語やシェークスピアの作品を題材にするなど、公演にテーマがある。大勢で踊る群舞をショーとして見せ、まるでミュージカルのよう」と評す。
この数年で客層に変化が見られるようになった。2016年、女性ファンも多い人気AV女優だった上原亜衣さんの引退公演が浅草ロック座で行われたことをきっかけに、ショーとしての魅力を知った女性客が足を運ぶようになったという。
「引退公演には、客席の3、4割を女性が占めていた。それ以前にも徐々に増えつつはあったが、以降ここ5年の間でさらに増えている印象を受ける。あの公演は、ストリップ劇場に女性客が増え始めたひとつの大きなターニングポイントだと考えている」と西条さんは話す。性的な印象が先行するストリップだが、物語を感じる構成や芸術性の高い踊り、そして美しく鍛え上げられた肉体美で、今は女性も楽しめるショーへと変化している。
愛媛県松山市の温泉街にある「ニュー道後ミュージック」では、コロナ禍で客足が戻らず売り上げは例年の3割ほどになった。ストリップ劇場は性風俗業に当たるため、国の持続化給付金の対象外に。家賃や光熱費、出演料などを払うため行った2度のクラウドファンディングでは、いずれも支援者の半数が女性だったという。新たな客層の開拓は期待が持てるが、劇場経営を取り巻く環境は厳しいことに変わりはない。それでも、踊り子たちはこのストリップ文化への思いを胸に舞っている。

▽人生の交差点
牧瀬茜(まきせ・あかね)さん(44)は、20歳のとき初めて見たストリップに心ひかれ、23年前に踊り子になった。過去には全国各地を飛び回りながら、年に300日以上舞台で踊っていたと言うが、「ステージが生きがいになっていたから、休みなんていらなかった」。
昨年10月、ニュー道後ミュージックを訪れると、楽屋で寝泊まりする牧瀬さんは、布団や着替えなど、必要最低限のものだけが置かれた小さな個室で、出番の合間に野菜スープを作って食べていた。
「仲の良い踊り子が引退したときの寂しさだったり、体の状態とか家族のことが理由で自分もやめるかどうか考えたことはあった。でも、踊りやステージが嫌になったことは一度もない」。しかし、デビュー以降毎年のように閉館を目の当たりにしてきた。「ストリップ劇場は人生の交差点。お客さんは時に、踊り子の裸に彼女たちの生きざまを見ているような。そして時に、踊り子の裸にお客さん自身の人生や、言葉にならない胸の内を映しているような。こういう大切な場所を失いたくない」

2011年から踊り子を続ける小宮山せりな(こみやま・せりな)さんは、「デビュー当時は女性客がいたら、踊り子同士で話題になるくらい珍しいことだった。最近は本当に増えていて、ほぼ毎回見かける。新しい時代が来ている気がします」と話す。小宮山さんは「エアリアル」と呼ばれるアクロバティックなパフォーマンスを披露する数少ない踊り子の一人だ。「また見たいと思ってもらえるような踊りをしたい」。そのステージは、ストリップを見たことがない人が抱くイメージとは大きく異なる。
天井からつるした布を体に巻き付け空中でポーズをとったり、フラフープのようなリングにつかまり、回転しながら次々とポーズを変えていったり―。アスリートのように鍛えられた腹筋に浮かぶ汗が、舞台上でミラーボールの光を反射する。
「地方の劇場で踊るときは、何か爪痕を残したいという気持ちが特に強い。ストリップって、裸を見て感動したり涙が出てきたりする、素敵な日本の芸能だと思う。自分のステージを見たお客様がまた足を運んでくれて、少しでも劇場に貢献できたらいいな」。出番前、鏡の前で黙々と着物を着付けながら、鏡面に映る自分の姿を見つめそう話した。

▽キスの壁
広島第一劇場の楽屋から舞台へと続く階段の壁には、無数のキスマークがある。30年ほど前に引退した踊り子が残したのが始まりといい、この場所で踊った幾人もが、それぞれの思いを胸に唇を寄せてきた。
今回のストリップ劇場の取材を始めた昨年10月から、劇場を、ストリップを愛するさまざまな人たちから話を聞いてきた。3月の取材最終日、ゆきなさんのその日最後のステージを撮影する前に、もう一度キスの壁の前に立った。薄暗い階段の横に残る、いくつもの赤い唇の跡。形や大きさもばらばらで、はっきりと見える新しく付けられたようなものもあれば、うっすらと輪郭だけが分かるものもある。この壁に、一体どれだけの人生や思いが込められてきたのだろう。彼女たちには、踊り子としての人生だけでなく、家族がいて、友達がいて、地元があり、一人の女性としての人生がある。客席にいる私たちは、身ひとつで立つ踊り子たちの、生きてきた軌跡を見せてもらっているのではないだろうか。どうかこの場所がなくならないでほしい。この先も、おのおのの人生を持ち寄った私たちと、それぞれの人生を見せてくれる踊り子たちに、ストリップ劇場という場所が同じ時間を流してくれますように。
劇場の古びた外壁を打ち付ける雨音を聞きながら、そう思った。

出番を控えたゆきなさんの、白くきゃしゃな手がそっとその壁に触れた。「劇場や文化を大切に守ってきた先輩方の思いを引き継いでいきたい」。午後11時、黄色の羽織を翻し舞台へと向かっていった。