【故ジャイアント馬場さん夫人・馬場元子さんの遺言(1)】4月14日に〝世界の16文〟として一時代を築いた故ジャイアント馬場さん(享年61)の夫人である元子さん(享年78)の命日を迎える。元子さんは2018年の同日に肝硬変のため、帰らぬ人となった。同年6月3日には兵庫・明石市の本松寺のお墓で納骨式が営まれ、現在は馬場さんとともに永遠の眠りについている。元子さん逝去の際は同年4月23日発行の「東京スポーツ」が1面で詳細を報じた。第一報の裏には、本紙への「遺言」があった。長年にわたって馬場さんを支えた元子さんの壮絶な闘病生活と、その「遺言」について詳細を初めて検証する。
元子さんが最後に公の場所に姿を見せたのは2017年1月22日、東京・渋谷区恵比寿の自宅で行われた「喜寿を祝う会」だった。この時はすでに肝臓の病気を患っており、腹水が目立っていたものの、元気な姿で参加者を安心させた。「自分で海外の病院に行って治してきます」と、とんでもない気丈な言葉も発せられた。記者は元子さんにお祝いのレイ(ハワイの花輪)をかける大役を仰せつかった。
しかし、同年6月から病状は悪化し、元子さんは東京・中央区の聖路加国際病院に入院する。この時点で、詳細を知る関係者は最期まで介護に当たった姪の緒方理咲子氏(63)と、全日本プロレスの和田京平名誉レフェリー(66)のみだった。状態はあまり思わしくないという情報は伝わってきたものの、周囲は口の堅い人ばかりで確認しようもない。折を見て地元の「萩の月」や宮城・石巻の親戚がつくった笹かまぼこを送ってはいたが、お礼をいただくのは元子さんではなく緒方氏からになっていた。
10月になると会場で和田氏から「ひょっとしたらもう長くないかもしれない。(報道の)用意はしておいたほうがいいかもしれない」と告げられた。確たる情報もないまま時間が過ぎ、年が明けてしまった。春になると元子さんから明石名産の「いかなごのくぎ煮」が届いた。記者は宮城・石巻の親戚がつくった笹かまをお礼に送った。
そして4月20日の夕方に、緒方氏から記者の携帯に連絡が入った。いつものように「おばが喜んでいました。ありがとうございます。元気です」とのお礼と思ったが、内容は全然違った。
「おばが4月14日に亡くなりました」
瞬時に頭の中が真っ白になった。同時にどう報じるべきかを考え始めた。ちょうど初七日が終わったばかりだ。もう関係者には伝わっているに違いない。とにかく自宅に向かって、関係者から追悼コメントを取って…。しかし、緒方氏の次の言葉に、記者は絶句した。
「まだ親族以外、誰も知りません。一番最初にお知らせします。おばは生前から『何かあったら東スポの平塚君を頼りなさい』と申していましたので」
あまりに重すぎる元子さんの「遺言」だった。(続く)
(運動二部・平塚雅人)