【追う!マイ・カナガワ】横浜の意外な酪農史(下)かつては北海道に次ぐ規模

明治時代前期に、現在の横浜市中区諏訪町付近にあった中澤源蔵氏の牧場の様子。左後方に牛が描かれている=「横浜諸会社諸商店之図」から。神奈川県立歴史博物館所蔵

 神奈川新聞の「追う! マイ・カナガワ」取材班に届いた1通の年賀状から、開港から続く思わぬ横浜の酪農の歴史を知ることになった。

 牛乳を消費する文化が西洋から横浜に伝わると、同時期に牧場が相次いで波止場を囲むように誕生し、全国に普及していった。55年まで、県内の生乳生産量は北海道に次ぐ2位を誇っていた。

 横浜市内の乳用牛の飼養戸数は、65年ごろに504戸、頭数5100頭とピークに達した。その後は減り続け、市やJA横浜の調査でも2019年には酪農家は磯子、瀬谷、泉、戸塚区内に9戸(320頭)が残るのみだ。市は「都市化の環境対策や担い手不足など、都市部で牛を飼育することが難しくなっている」とその理由を説明する。

 「酪農専業の農家が自ら牛の乳を絞って、都心部に配達するのがミルク・リングの特徴。そうした開港から続いてきた農家があったのは1990年代が最後です」。横浜開港資料館(横浜市中区)の元調査研究員で、牧場の歴史に詳しい斎藤多喜夫さん(73)はそう説明する。大都市に発展するとともにミルク・リングは悲しくも幕を閉じ、その歴史を直接継承している牧場はもうないという。

◆タカナシ乳業が“応援”

 戦後、ミルク・リングの流れとは別に、牛乳の消費量増大を見据え、横浜で牛乳工場を立ち上げたのがタカナシ乳業(同市旭区)だ。明治期に創業者の高梨芳郎氏の父である千葉出身の庄三氏が横須賀で牧場経営をスタートし、横浜市の誘致を受けて59年、旭区に本拠地を移転した。

 同社に、そのいきさつを聞こうとすると、「創業者が神奈川新聞の『わが人生』で語っていますよ」と教えてくれた。

 84年の連載「わが人生」では、同社を日本を代表する乳業メーカーに育てた芳郎氏(1908~2003年)が、牛乳でハマの戦後を支えてきた誇りを語り尽くしている。

 〈空襲や牧場の廃業により、大手メーカーは逐次東京に引き揚げ、あとには数軒、小さな地元メーカーがあるだけで、“大横浜”の需要を賄いきれない。そこで横須賀の私の会社が、戦争末期から戦後十数年にわたり、横浜で不足している牛乳を“応援”する状態が続いていたのである〉
 連載からは、戦後の横浜の牛乳事情が十分でなかった状況もうかがえる。

 脱脂粉乳が主流だった学校給食に、牛乳が本格的に登場したのは1960年代。終戦時62万人だった横浜市の人口は、60年に137万人、70年に223万人と爆発的に増加。地産地消を極めたミルク・リングは失われてしまったが、牛乳を飲む文化は広がった。同社はハマっ子の成長を支え、3代目の現社長・信芳氏までミルク供給を担ってきた。

 「酪農家の減少は横浜に限らず全国的な課題。商品作りを通して、酪農や牛乳の魅力を発信していきたい」という同社。ぜひ、横浜と牛乳の歴史を結び付ける商品を開発してほしいと思うのは記者だけか。商品名に「ミルク・リング」をうたうのはどうだろう。

◆一升瓶持って

 記者が最初に訪ねたJR山手駅近くの石川牧場は、明治から戦時中を経て、平成を目前にした88年末に廃業するまで続いたという。そこで今も暮らしている石川英文さん(74)は「近所の人は一升瓶を持って買いに来た。200cc当たり100円で売っていました」と往時を懐かしむ。

 根岸線が延伸され、東京五輪が開催された64年に国鉄の山手駅ができると、牛が鳴いてのどかだったエリアにも住宅が増え、近所に迷惑を掛けまいと思うようになった。「牛だからおなかが減れば鳴くし、においもあるから」と石川さん。最盛期には30頭の乳牛がいたが、徐々に飼育数を減らし、最後は2、3頭になった。投稿者の男性が山手で牛を見たのは、きっとそんな頃だ。明治から続いた横浜のミルク・リングの最後の光景だったのだろう。

 「迷惑を思って牧場を閉めたら、子どもを連れて牛を見るのが好きだったからとても残念という人もいた。その言葉を聞いた時、なんとなくほっとしました」。石川さんは牛とともに生きた時代を思い出し、目を細めた。

■絞りたて「ハマッ子牛乳」

 横浜市瀬谷区で戦後に開業した「相澤良牧場」では、市内で唯一、絞りたての牛乳を販売している。横浜港開港150周年の節目に誕生した「ハマッ子牛乳」(税込み680円)は、ミルク・リング時代と同じく地産地消の味を楽しめる。

 同牧場の相澤広司さん(62)は「横浜は牧場発祥の地でもあるので、多くの人に横浜の新鮮な牛乳を味わってほしい」と話す。

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