【越智正典 ネット裏】選手獲得自由競争時代、巨人の沢田幸夫はスカウト仲間から「台風の沢ちゃん」と呼ばれていた。こういう日こそチャンスだと強風豪雨の最中に目指す選手の家を訪れるからである。
沢田幸夫は明治高校、明治大学、監督“御大”島岡吉郎に見込まれてマネジャー。島岡の躾、教育は厳しい。しかし、それは選手への愛切そのものであった。
昭和44年卒業の故星野仙一はいつも回想していた。
「大事な早明戦に負けて合宿に戻ったその晩、殴られるかな…と思っていたら、パンツ一枚で、となりのグラウンドのマウンドで正座でした。雨が降り出しました。雨がやみ、空が少し明るくなったとき、ひょいとベンチ前を見ると、御大が正座していました。東京に出て来て初めて泣きました。御大がいっしょに夜明かしをしてくれたんです」
星野は岡山県水島、三菱重工の技師長だった父親正田仙蔵さんの顔を知らない(星野は母方の姓)。おかあさんのおなかのなかで7か月のときに亡くなった。島岡の正座は星野が初めて知る父親の味であった。
千葉敬愛高校の捕手、昭和34年入学の村山忠三郎は「暮れに正月休みでみんなが田舎に帰るときの御大の訓示が忘れられません。500円でいい。100円でもいい。おふくろに土産を買っていけ。なんでもいい。おやじさんはフスマのかげで泣いとるぞ」。
村山は卒業後、マツダの自動車の販売会社に就職。連続同社販売台数ナンバーワンになる。村山は島岡に「人間力」を学んだ。
島岡はまた、教え子が結婚の仲人を頼みにくると「式は11月11日がいい。日本一の『1』が4つもあるぞ」
沢田は昭和30年卒業後、マネジャーで大洋ホエールズに入団。36年巨人に迎えられてスカウトに。この時点で巨人には正式なスカウトは沢村栄治のキャッチャー内堀保しかいなかった。いや、もうひとりいた。35年秋巨人監督に就任した川上哲治が兼ヘッドスカウトになっていた。川上はここからチームづくりを始めようとしていた。
沢田は目指す選手の家を訪れたとき、料亭から取り寄せたようなご馳走が出ると、帰り道に反省していた。
「ダメだ。まだ努力が足りない」
が、味噌汁とその家の漬物のごはんが出ると喜んだ。
「家族同様にしてくれた。心を開いてくれたんだ」
「台風の沢ちゃん」は「ツケモノの沢ちゃん」になる。
沢田は法政二高の柴田勲を取る。勝負の相手は鶴岡一人南海ホークス監督だった。
四日市商業高、中日、高橋、近鉄、35年に南海に移籍の投手、伊藤四郎が驚嘆する。
「南海に来て親分(鶴岡)に頭が下がりました。遠征に出ても、朝はやく起きて選手を探しに行くんです」
沢田は横浜の名園三渓園で毎日、何時間も鶴岡が柴田家を辞去するのを待っていた。
40年、沢田は第一回のドラフトで甲府商業の投手堀内恒夫を指名する。堀内にまっしぐらであった。
<次回につづく>
=敬称略=