大きな予兆もなく 突然逝った馬場元子さん「最後においしいものを食べて…大往生だったと思います」

元子さん(右)は突然、G馬場さんのもとへと旅立って行った…(写真は1983年)

【故ジャイアント馬場さん夫人・馬場元子さんの遺言(7)】2018年のジャイアント馬場さんの誕生日である1月23日、外出許可を取って自宅に戻った馬場元子さんは、スタンプカードを持つ親しい身内に囲まれ、生きていれば80歳となったジャイアント馬場さんの「傘寿のお祝い会」で笑顔を見せた。車椅子から参加者に「あなた、食事は他人に取らせないで自分で取りなさいよ」などと笑いながら声をかけていたという。それが自宅における〝最後の晩餐〟となった。

見た目は通常で、日常会話もできた。6月に見られた「矛盾した発言」も消えていた。しかし体内で病状はゆっくりと確実に進んでいた。冬が終わり春が訪れた18年4月13日午後、元子さんの姪・緒方理咲子氏はいつものように仕事を終えると施設を訪れて夕食を見守った。元子さんは用意された食事を全部たいらげると「ねえ、あれを冷蔵庫から出してちょうだい。あなたにも1枚あげるから」と語った。記者が「いかなごのくぎ煮」のお礼に送った宮城・石巻の親戚がつくった笹かまぼこだった。

「『あの子は心があるんだよ。本当においしいわねえ』。そう言いながらおばは、食後の薬も飲んだ後、今日も1日ありがとうねと私に言うと、ゆっくり横になりました。いつものように話をしながら足の裏をマッサージしていると、静かに眠り始めたのですが、少し様子が違った。呼吸が浅かったので、これはおかしいとすぐに担当のスタッフを呼びました」と緒方氏は語った。

その後に担当医から「今日が山場かもしれません」と告げられた。そして翌14日夜、静かに息を引き取った。

「本当に突然でした。おばも自分が死ぬなんて考えたことはなかったので、相続についての遺言すらなかったんです。おばはとても食事を大事にした。たとえ高いものでもおいしくないと『ああ、損したわね』とハッキリ言う人だった。だから最後においしいものを食べて眠りについたのだから大往生だったと思います」

記者にとっては、最後の晩餐で残されたあまりに重すぎる「遺言」となった。

身内だけで通夜と密葬を終えると、4月20日には記者に元子さんが亡くなったとの連絡が入った。身に余る言葉を最期にいただいたのだが、どうにも納得できない部分があった。全日本担当時代には数えきれないほど頭ごなしに叱られた。さらに2000年6月の全日本プロレス分裂の際には、ノアを旗揚げした故三沢光晴さん(享年46)の側に重点を置いて記事を書いたからだ。それでも馬場さんの命日には毎年、自宅に入れていただいた。本当は心の底で「裏切り者」と思われているのでは、という引け目は消えていなかった。

「それはないですよ」と記者の問いに緒方氏はあっさり答えてくれた。「『あの子にも仕事と立場と会社がある。そうせざるを得なかったんだから仕方ないよ』と言っていたと思います。そういう考えだから秋山(準=現DDT)さんにも社長を任せたのではないでしょうか」

秋山の名前を聞いた瞬間、すっかり忘れていた事実を思い出して「あっ」と声を上げそうになった。2014年に秋山が全日本プロレスの社長を引き受けるにあたって、同じような言葉を告げられていたからだ。

14年6月3日、雨が降る横浜市内だった。(続く)

(運動二部・平塚雅人)

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