51年前の今日(4月17日)が発売日:ポール・マッカートニーのソロデビューアルバム『McCartney』の内容とビートルズの解散

1970年4月17日に発売されたポール・マッカートニーのソロ・デビュー・アルバム『McCartney』は、多くの人が期待したものとはかけ離れたものだった。前年9月に発売されたザ・ビートルズの『Abbey Road』の洗練された完璧さ続いての発売となった今作でポールが選んだのは、自宅にて一人で作った曲や実験、音の落書きを集めたアルバムだったのだ。

このアルバムは、50年以上に及ぶポールのソロキャリアのスタートとなった。しかしその前に、彼はビートルズを脱退しなければならなかった。

 

“ポール、ビートルズ脱退”

1970年4月9日、ポールはジョン・レノンに電話をかけて、バンドを辞めることを伝えた。ジョンは、1969年9月に自分の脱退の意思をバンドに伝えていたが、お互いの合意により発表はしていなかった。ポールも自分の力で生きていくことを決意したのだ。

ポールがジョンに言わなかったことは、ポールが全米のマスコミに“セルフ・インタビュー”を送って、ビートルズが終わったことを知らせたことだった。ソロ・デビュー・アルバムと一緒に送られてきたこのプレスリリースで、ポールは、記者会見で聞かれるであろう質問に答え、ニュー・アルバムについてだけでなく、ビートルズの未来についても語っていた。

Q:ビートルズと一緒に新しいアルバムやシングルを出す予定はありますか?
A:いいえ。

Q:今回のアルバムはビートルズから離れた休息なのか、それともソロ活動の始まりなのか?
A:時がたてばわかるでしょう。ソロ・アルバムということは、“ソロ・キャリアの始まり”ということであり、ビートルズと一緒にやっていないことは、単なる休息でもある。だから、両方ですね。

Q:ビートルズとの別れは一時的なものですか、それとも恒久的なものですか、それは仲たがいによるものですか、それとも音楽の方向性の違いですか?
A:仲たがい、ビジネス上の違い、音楽性の違い、しかし何よりも家族との時間を大切にしたいからです。一時的か永遠か?私にはわかりません。

Q:レノン=マッカートニーが再びソングライティングのパートナーチームになることはあるのでしょうか?
A:ありません。

翌日のデイリーミラー紙には、「ポール、ビートルズ脱退」という一面トップの見出しが躍った。ポールは、自分のソロ・デビュー・アルバムが注目されないようにしたかったのであれば、これ以上のことはないだろう。

 

“対抗しようとする必要はなかった”

『McCartney』の発売から半世紀を経た今、その手作り感あふれる作品の魅力はポール自身が最初から予見していたものだったと評価されている。「荒削りなものばかりで、どれも気に入っていて。荒削りだけど、そこには何かある種のものがあるんだ」

しかし、発売当時の評判は散々なもので、多くの評論家が「曲が中途半端で、プロデュース不足」と指摘していた。しかし、後になって考えてみると、彼は自分が苦労して制作したレコードで元のグループに対抗しようとしなかった。そうしてポールはビートルズの影から抜け出したのだ。ポールがロックの殿堂入りを果たした際にニール・ヤングが言ったように。「彼がそれまでにやってきたことに対抗しようとする必要はありませんでした」。

ポールは、ロンドンの緑豊かなセント・ジョンズ・ウッドにあるジョージアン様式の集合住宅で、主にスチューダー製の4トラックテープマシンを使って録音したデビューアルバムの曲を、Q&Aとともに紹介していた。アルバムは、ロンドン北西部の郊外にあるウィルズデンのモーガン・スタジオ、そしてアビー・ロードで仕上げられた。今日では、このポールのやり方は、ローファイと呼ばれる音楽制作の分野全体に広がっている。しかし、当時はメジャーなアーティストがこのような録音技術の基礎的な手法を用いることは前代未聞であった。ミキシングデスクも持たずに、ポールはテープマシンに直に接続したのだ。

 

“フル・ソングの予告編”

アルバム『McCartney』のオープニングは、「The Lovely Linda」という曲の“落書き”である。1分にも満たない長さのこの曲は、スチューダーを導入して最初に録音したもので、‟機械のテストのため”とポールは語っており、メモに「この曲は、将来録音されるであろう本編の予告編である」と記している。そして50年経った今でも、我々はその曲を待ち望んでいる。

次の曲「That Would Be Something」は、「The Lovely Linda」と同じく、1969年にマッカートニーがスコットランドの農場で書いた曲で、ジョージ・ハリスンはこの曲を「素晴らしい」と評していた。この曲は、ポールの南部訛りによってカントリーのルーツが強調されており、その風のようだ。

この2曲が素朴な雰囲気を醸し出しているとすれば、3曲目の「Valentine Day」はこのレコードのカジュアルな雰囲気を確立していると言える。9曲目の「Momma Miss America」と同様に、この即興によるインストゥルメンタルは、「何よりもマシンのテストを意識して」録音されたものだ。

しかし「Valentine Day」のカジュアルな雰囲気とは裏腹に、このアルバムで最初の本物のマッカートニーの名曲がすぐに続く。4曲目の「Every Night」は、当時のポールが生きていた2つの人生を物語っているように思える。その一つであった、ビートルズは既に崩壊していた。ビジネス上の違いから、ポールはジョン、ジョージ、リンゴとの間に溝ができていた。本人も認めているように、彼は憂鬱な気分に陥り、慰めを求めるために酒に頼っていた。

もう一方では、彼は新婚で、新しい女の子が生まれ、さらにリンダの前夫との6歳の娘もいた。この二面性は「Every Night」にも反映されている。楽曲の歌詞には

Every night I just wanna go out, get out of my head
Every day I don’t wanna get up, get out of my bed
毎晩、外に出かけて嫌なことを忘れたい
毎日、ベッドから起きたくもない

とあり、最後にこう締めくくられている。

But tonight I just want to stay in and be with you
でも今夜は、ただ家にいて君と一緒にいたいんだ

ポールはメモの中で、冒頭の歌詞は数年前から考えていたと語っている。また、この曲はアルバム『McCartney』の中で初めて自宅録音ではなく、アビーロードで録音されたものだ。

 

「シナトラに “Suicide”という曲を送ったが、彼は理解してくれなかった」

5曲目の「Hot As Sun」はもっと前、少なくとも1950年代後半に作られた曲だ。12小節のインストゥルメンタルで、ポールは明らかにこの曲を気に入っていた。1969年1月に行われたビートルズのゲット・バック・セッションで復活させただけでなく、1979年に行われたウイングスの最後のツアーのセットリストにも加えている。

この曲は、ポールが録音したワイングラスの音で締めくくられた後、「Suicide」という曲の断片が聴こえてくる。ポールは、この「Suicide」をフランク・シナトラにプレゼントするつもりで書いていた。

「シナトラと電話で話して、そのことを伝えたんだ。“いいね、ポール。送ってみてよ”、“ありがとう、フランク!”ってね。デモを作って彼に送ったところ、彼は私が冗談を言っていると思ったようです。“こいつは冗談を言っているのか?” って本当にそう思ったそうです。シナトラに“Suicide”なんていう曲を送るなんてね。理解してくれなかったですね」

6曲目の曲は、1968年にビートルズがインドでマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーとともに滞在した際にポールが書いた曲「Junk」だ。この曲は、廃品置き場のはかなさを描写した歌詞が特徴的だ。

「自転車のハンドル、センチメンタルな祝祭、ジャムの空き瓶。このようなイメージが好きなんだ」

とポールはファンクラブ紙で説明していた。

「それに好きな言葉もある。いつも、”燭台/candlestick”という言葉が好きだと言ってきた。ある種の言葉は、頭の中で色を作ったり、感情を呼び起こしたりする。だからこの曲は、意味を持たせなければならない素敵な言葉の寄せ集めで、“”Buy! Buy!” says the sign in the shop window”と歌っている。それをひとまとめにして、“Junk”というアイデアが出てきた。曲を作るにはいい方法だったよ」

オリジナル盤のA面は、ソロ・デビュー・アルバムのレコーディング・セッションの終盤に書かれた「Man We Was Lonely」で締めくくられる。ポールは、この曲がリンダとの初めてのデュエットだったと語っている。

「サビの部分(Man we was lonely)は、アルバムのレコーディングが終わる少し前に、自宅のベッドで書いたんだ。中間部分(I used to ride…)は、その日の午後にレコーディングすることになっていたので、ある昼休みに大急ぎで作ったんだ」

アルバムの後半は、自宅で録音したインストゥルメンタル曲に、後にポールがモーガン・スタジオでヴォーカルを加えた「Oo You」で幕を開ける。ブルージーなインストゥルメンタル曲「Momma Miss America」の後は、ポールがゲット・バック・セッション中に完成させようとして失敗した「Teddy Boy」だ。

「Teddy Boy」は、後にビートルズのコンピレーションアルバム『Anthology 3』に収録され、ジョン・レノンが「Take your partner, do-si-do」とバックヴォーカルで歌い、ポールは笑い転げていた。この曲は「Rocky Raccoon」や「Maxwell’s Silver Hammer」に続く、この頃のポールらしい気まぐれなストーリーソングだ。続いて「Junk」のインストゥルメンタル・バージョンは「Singalong Junk」と名付けられ、その後、このアルバムの紛れもない力作である「Maybe I’m Amazed」が収録されている。

 

名曲「Maybe I’m Amazed」

1969年に妻のリンダについて書かれた「Maybe I’m Amazed」は、アビー・ロード・スタジオで録音され、ポールは最高のギターソロを含むすべての楽器を演奏している。ローリングストーン誌の“史上最高の500曲”にも選ばれた「Maybe I’m Amazed」は、今でもポールのライブの中心的な曲だ。リンダの死から何年も経った現在、ポールの歌声はアルバム収録時よりもさらに情熱的になっている。

ポールのソロ・デビュー・アルバム『McCartney』を締めくくるのは、「Kreen-Akrore」と名付けられた実験的なインストゥルメンタル・トラックだ。マッカートニーはメモにこう記している。

「テレビで、ブラジルのジャングルに住む原住民クリーン・アクロアの生活や、白人が彼らの生活様式を自分たちのものに変えようとしている様子を描いた映画が放映されていた。そこで翌日、昼食後にドラムを叩いてみた。その背景には、彼らの狩りの感覚をつかむということがあった。それで後にピアノ、ギター、オルガンが最初のセクションに加えたんだ」

「最初のセクションの最後には、リンダと私が動物の鳴き声と矢の音(弓と矢でやったら、弓が折れちゃった)を出して、そしたらギターケースの上を動物が駆け抜けていくんだ」

こうして、ポール・マッカートニーはソロ活動を開始したのである。

Written By Paul McGuinness

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