【ダイアモンド☆ユカイ 昭和ロックを語る時が来た!:エディ藩編】「レッド・ウォーリアーズ」のボーカル、ダイアモンド☆ユカイ(59)が、ゲストを招いて昭和の日本に巻き起こったロックムーブメントをひもとく。ゲストは伝説のバンド「ザ・ゴールデン・カップス」のギタリストとして活躍したエディ藩(73)。若かりしエディが通訳を担当した“インチキビートルズ”。実はリハーサルの段階で当時の日本の一流ミュージシャンに衝撃を与え、後のGSブームにつながるほどの影響を残したという。
ユカイ インチキビートルズって、そんなのが来日してたんですか!?
エディ ビートルズが日本ではやりだしたころに来たんだよ。「リヴァプール・ファイブ」ってバンドなんだけど、なぜか「リヴァプール・ビートルズ」と名乗ってた。1964年9月の話。
ユカイ ビートルズのシングルレコードが日本で初めて発売されたのは、本国から1年以上遅れた64年2月(「抱きしめたい」)。その年ですね。来日は66年でしたが、その前にそんなグループが来てたんですか!? ビートルズがリヴァプール出身であることを踏まえた、最高にアヤシイ名前ですね(笑い)。
エディ リヴァプール・ファイブ自体がまったく無名のバンドでさ。だからニセのバンド名つけても通用したんだね。後楽園で公演やるからって、そのバンドの通訳を頼まれたんだよ。「お前、英語しゃべれるし、楽器詳しいから、通訳やってくれ」って。17歳の時かな。
ユカイ どんな曲やったんですか?
エディ 1曲目から「ア・ハード・デイズ・ナイト」。
ユカイ ビートルズの曲!(笑い)。しっかりニセビートルズを演じてたんですね。
エディ 前座で内田裕也さんや寺内タケシとブルージーンズが入っててさ。リハーサルの時に先に寺内さんがやるわけだけど、すごいバカにしてたのね。なんで俺がニセモノの前座なんだ、みたいな感じで。タンスみたいなアンプ使ってて、俺たちが日本で一番デカい音鳴らしてるって威張ってるわけ。実際、寺内さんたちの演奏はすごい良かったんだよ。さすがだった。さて、リヴァプール・ファイブ。実はこの時、日本に初めてPAを持ち込んだんだよ。
ユカイ PAがまだ普及してなかったんですか。
エディ 5人が出てきて「テスト」って言うと、会場中のスピーカーにつながってるから「テステステス」って響き渡るわけ。リバーブとかディレイかけてさ。マイクはAKG、アンプはVOX。キーボードはクラビネットとかあって、機材も良かったんだよ。リハを寺内さんたちも見てて、1曲目、「ア・ハード・デイズ・ナイト」。♪ジャーン、It’s been~って始まったら、寺内さんぶっ飛んじゃった(笑い)。
ユカイ 音が違い過ぎた!
エディ 演奏もすごく良くてさ。寺内さん、小さくなっちゃった。ウソかホントか、これで目覚めて「俺たちの時代は終わった。これからは歌わなきゃダメだ」ってインストゥルメンタル専門だったのが、ボーカル入りの曲をやりだし、それがGS(グループ・サウンズ)の原点だっていうんだね。
ユカイ ビートルズが来る前に、インチキビートルズが爪痕を残し、影響を与えて帰ったとは。
エディ 演奏もうまくてさ。ギターもすごくうまかった。
ユカイ 日本にAKGのマイクやVOXのアンプが広まったのって、それからなんでしょうね。ビートルズもVOXのアンプを使ってたけど、まだ画像や映像で見るだけ。プロのミュージシャンが生で音の違いを体験したら、使わないわけがない。
――ところで米国から帰国後、ゴールデン・カップスを結成することになったいきさつを…
エディ 帰ってきたら、デイヴ平尾が俺のとこに来て、「今度、バンドでゴールデンカップに出るから見に来てくれ」って。行ったら、平尾だけラヴィン・スプーンフルみたいな格好してた(笑い)。
☆エディ・バン 1947年6月22日生まれ。神奈川県横浜市出身。デイヴ平尾らとザ・ゴールデン・カップスを結成し、67年に「いとしのジザベル」でデビュー。グループ名は出演していたライブハウス・ゴールデンカップから。脱退、復帰を経て同グループは72年1月に解散。以後はソロで活躍。作曲した「横浜ホンキー・トンク・ブルース」は数々の歌手、俳優に歌われている。
☆ダイアモンド・ユカイ 1962年3月12日生まれ。東京都出身。86年にレッド・ウォーリアーズのボーカルとしてデビュー。89年に解散後、数度再結成。