川筋もんのよかスカウト・柴田崎雄の流儀

中日時代の江藤慎一(1963年6月)

【越智正典 ネット裏】巨人のスカウト沢田幸夫にとっても思い出多いプロ野球第一回新人選択会議は、昭和40年11月17日東京日比谷の日生会館で開催された。

発議は西亦次郎西鉄代表だが、西はずぅーと思い悩んでいた。西鉄は赤字続き、お客さんに来てもらえる、いちばんいいサービスは優勝することだが、勝つと選手の年俸が高騰する…。

そんな折に、アメリカのプロ米式蹴球が戦力均等化の完全ウエーバーを実施しているのを知った。これだと、岡野祐阪急代表(のちにパ・リーグ会長)に相談。岡野は温厚、滅多に選手を整理しない。成長を待っている。34年八幡浜高校から阪急に入団した矢野清の場合もそうで、開花したのは10年目の43年で27本塁打。44年に3サヨナラ弾。

12球団の話し合いがやっとまとまった。が、決まったのはなんと。クジ引きドラフトだった。はじめにクジを引く順番を決めるクジ引き、それから本番のクジ引き。

中日の柴田崎雄スカウトが怒った。

「これはどげんことか、探せば藁葺き屋根の家にきっといい選手がいる」

スカウト自由競争時代、夏の甲子園大会が終わると秋祭りの季節である。柴田は手土産に赤い鼻緒の駒下駄とゆかたを持って選手の家を訪れる。

「戦争が終わってからご苦労をなさったでしょうね。食べたいものも食べず、着たいものも着ないで息子さんを育てたのでしょうね。これ、お祭りの日に着て下さい」。おかあさんを泣かせた。

柴田の出張先の定宿は岡山では「圓」。33年秋、探し当てた日鉄二瀬の江藤慎一と契約するときは、球団事務所ではなく、名古屋駅前の「八千代旅館」。千代に八千代にいつまでもご縁が続きますようにというのだった。柴田は飯塚の食堂「福長」の大将に頼んでいた。「二瀬の江藤が来たらステーキを食べさせて下さい。でも牛肉だと予算オーバー。スミマセン、クジラで頼みます。ツケはわたしに回して下さい」

席についた江藤が叫んだ。「手がふるえて字が書けません。柴田さん、代わりに書いて下さい」

江藤とは、あの「闘将」首位打者3回、46年はロッテで、セ・パ両リーグで打撃王。出場試合2084、安打2057、本塁打367。

契約金は500万円。日鉄二瀬のときは監督濃人渉(金鯱の遊撃手、1番打者、中日、ロッテ監督)の温情で臨時雇いで月給7000円。炭坑住宅の家々に米俵をかついで配達するのが仕事だった。

当時、大学、社会人選手の契約金は1000万円が相場だったが江藤は1/2。純な思いに心打たれた柴田は祈った。「自分の手で幸せを沢山つかんでくれ」。

38年正月、キャンプに行く前に練習しようと九州出身の選手たちにせがまれ、名勝中津に集まった。朝はランニング。一夕、新人、八女高校から入団の捕手木田優のおかあさんがガメ煮を作ってわざわざ差し入れに。母一人子ひとり行商人宿を営んで息子を育てて来た。柴田は感謝し、ビールで乾杯。おかあさんと炭坑ぶしを踊った。宿は湧いた。柴田崎雄、飯塚商業、戦中の大洋(金鯱と翼の合併球団)、巨人、捕手。男がウリの川筋のよかスカウトである。=敬称略=

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