東日本大震災支援の経験を世界で生かす 海外の援助団体、3人の証言

台湾赤十字が支援した岩手県山田町の放課後児童クラブを訪れる王清峰会長(右端)と子どもたち=2015年3月(台湾赤十字提供・共同)

 2011年3月11日の東日本大震災で被災地に駆け付けた海外の援助団体は、震災支援の経験を生かし、世界で過酷な境遇にある人々を支えている。その一方で、震災から10年がたった今も、被災者と交流しながら、復興に向けて息の長い取り組みを続ける。3団体の関係者をインタビューし、国際支援のあり方を探った。(共同通信=新里環、松下圭吾、柴田智也)

 ▽南スーダンから派遣

 東日本大震災で支援活動に取り組んだ国連の人道支援機関、世界食糧計画(WFP)の職員日比幸徳さん(45)は支援物資の管理・輸送や民間団体の活動調整に携わり「援助団体が互いの強みを生かして連携し、必要な支援につなげることが大切と学んだ」と語った。現在、リビアでの食糧支援にその経験が生かされている。

 ―震災直後の対応は。

 「11年3月15日以降、世界各地から職員27人が派遣された。当時は独立直前の南スーダンで仕事をしており、遅れて日本入りした。4月末に千葉県成田市にある物流会社の倉庫で、海外から送られてきた支援物資の確認作業を担い、5月の大型連休明けに岩手県に入った」

 ―具体的な活動は。

 「震災直後より状況は落ち着いていたが、多くの支援物資やボランティアであふれ、調整役が求められていた。各支援団体などの活動をつなぐNPO法人『ジャパン・プラットフォーム(JPF)』に出向。社会福祉協議会やボランティアから被災地の需要を聞き取り、過不足が生じないように支援物資を振り分け、支援団体を紹介した」

WFPの日比幸徳さん=2013年8月、スーダン・ダルフール地方(WFP提供・共同)

 ―印象に残ったことは。

 「『早く生活を立て直したい。復興のために何かしたい』という被災者の強い思いを感じた。津波被害に遭った釜石市の商店街の男性から、商店街再開に向けた相談を受け、JPFの助成金を使い車での移動販売を手助けできた」

 ―通常のWFPの活動より幅が広い。

 「WFPの強みは物資輸送と食糧支援。民間団体には保健から通信分野までいろいろな専門家がおり、WFPが全てを担うのは難しい」

 ―経験はどう生かされているか。

 「各団体との連携に目が向けられるようになった。現在はリビアで内戦に苦しむ人々への食糧支援だけでなく、被災者の生活などの復興支援もしている。人々の需要を把握し、さまざまな専門知識や資源を持つ団体とつながってその強みを生かす活動は、岩手での経験から学んだことが多い」

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 ひび・ゆきのり 75年、三重県鈴鹿市出身。大学院を経てWFPに就職。カンボジアやスーダン、パキスタンに赴任。現在はリビア事務所のプログラム総括。

 ▽東北の傷は深いと直感

 弱者を支援するローマ・カトリック教会関連の国際NGO「カリタス」の日本支部「カリタスジャパン」で責任司教を務める菊地功大司教(62)は、虐殺事件があったアフリカ東部ルワンダの難民援助で「息の長い支援が大事だと学び、東日本大震災の被災者の援助に生かした」と語った。

 ―震災直後の対応は。

 「震災の2日前、バンコクでカリタスアジアの総裁に選ばれ、帰国直後に被災した。これまでの海外援助経験から東北の傷は深いと直感し、カリタスに援助を依頼。車に積めるだけの物資を集め、宮城県に向かった」

 ―被災地での活動は。

 「到着後、被災地支援の司令塔となるサポートセンターの立ち上げを決め、事務局長を任命。その後、被災状況の確認や支援拠点の立ち上げに携わり、国内外のカトリック関係者やボランティアを受け入れる「受援体制」を整えた。カリタスアジア総裁としても世界の関係機関に働きかけ、約19億円が海外から集まった」

2021年2月3日、東京都文京区で撮影インタビューに答える菊地功大司教

 ―国際援助の経験は役に立ったか。

 「アフリカでは『難民の存在を忘れていない』と行動で示すことが大切だった。それは日本でも同じ。被災者のことを思い、祈り、支援していることを示し続けた。インフラ整備だけでは意味がない。新たな生きる希望を持ってもらうことが真の心の復興だから」

 ―この10年間で印象に残ったことは。

 「おととし来日したローマ教皇と被災者の集いを企画したことだ。震災で日常を奪われ、今も傷ついている人がいることを世界に知ってほしかった。教皇は集いで『希望を回復させてくれる友人との出会いが不可欠』と指摘した。その役割を担いたい。心に苦しみを抱えている人に寄り添い、希望を持ってもらう手助けをしたい」

東日本大震災被災者との集いで、スピーチするローマ教皇フランシスコ。右から4人目は菊地功大司教=2019年11月、東京都千代田区

 ―新型コロナウイルスの影響は。

 「全拠点で一時、ボランティアの受け入れを停止し、大人数で集まるのをやめた。それでも被災者とつながることにこだわった。時間を制限して会話を続け、電話や手紙なども使った。過去の体験から人と人のつながりが落ち込んだ気持ちを励まし、希望を持つ力になると分かっていた」

 ―今後の活動は。

 「カリタスの活動は教会が拠点だ。被災前から地域コミュニティーの一翼を担っており、これからも被災地でローカルな活動を続ける。教会はグローバルなネットワークもある。これを生かして各国からの祈りや支援を被災地に届ける窓口であり続けたい」

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 きくち・いさお 1958年11月1日58年、岩手県生まれ。南山大学大学院修了。86年、日本人神父として初めてアフリカに赴任。国際開発に携わり、11年から8年間、カリタスアジア総裁。17年から東京大司教。

 ▽台湾から義援金、日本への恩返し

 東日本大震災の被災地へ、台湾から総額200億円を超える義援金が寄せられた。資金を生活再建に役立てるため、毎年のように被災地を訪れた台湾赤十字の王清峰会長(69)は10年間の取り組みを振り返り、「復興に携われたことに感謝している」と話した。

 ―当時、200億円超もの義援金はどのように集まったか。

 「震災後、被害を伝えるニュースに台湾人は心を痛めていた。テレビは連日チャリティー番組を流し、政府機関から慈善団体、企業に至るまで台湾総動員での募金活動が進められた。政府が主導したというより、自発的な思いが強かった」

 ―金額の多さに驚いたか。

 「驚きはしたが、意外ではなかった。台湾では日本に親近感を持つ人が多いことに加えて、同じ災害多発地域であることから、被災をわがことのように感じていた」

 ―募金にどのような思いが込められていたか。

 「台湾には、米を一口もらったら米一斗をお返しせよということわざがある。1999年の台湾中部大地震で2400人以上が亡くなった。被災地出身のおばあさんが東日本大震災後、「あの時に日本が助けてくれた。今回は私たちが助けたい」と募金を申し出てくれた。日本への恩返しの意味があった」

オンラインでインタビューに応じる台湾赤十字の王清峰会長=2月9日午後(共同)

 ―200億円超の義援金のうち、台湾赤十字に寄せられた約70億円の使い道は。

 「発生直後は人命が第一と考え、医療や生活支援のため約18億円を日本赤十字へ届けた。残り約52億円を岩手県山田町、大槌町の保育園や放課後児童クラブ、宮城県南三陸町の病院、福島県新地町の災害公営住宅の建設などに充てた」

 ―活用先をどのように決めたか。  

「東北3県の被災地に出向き、一番立場が弱く助けが必要な老人と子どものためになる施設やサポートを優先した」

 ―被災者と接して印象深かったことは。

 「訪れた仮設住宅に住むほとんどが高齢者だったが、不平不満を言う人が誰もいなかったこと。東北の人の我慢強さを感じると同時に、不満さえ口にしない人たちを助けたいと思わされた」

 ―支援事業の現状は。

 「最後の事業となる岩手県大槌町の公営住宅が2019年11月に完成した。昨年2月に現地を訪れ、おしゃべりをした住人から「安心して楽しく暮らしている」と聞き、ほっとした。自然豊かな町も元気を取り戻しているように感じた」

 ―10年を振り返って。

 「支援に対して口頭でも手紙でも『ありがとう』の言葉をたくさんもらった。東日本大震災を通して日本赤十字との協力関係も深まった。災害は起きてほしくないが、発生した時はできる限りのことをしたい」

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 おう・せいほう 52年、台湾・台南市生まれ。弁護士。法務部長(法相)、台湾赤十字会副会長を経て、12年から会長。

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