コロナ禍の非常時、「対面の首脳会談」は必要だったのか 訪米優先した菅首相の姿勢を問う

By 尾中 香尚里

日米首脳会談後の共同記者会見で発言する菅首相=4月16日、ワシントンのホワイトハウス(共同)

 菅義偉首相と米国のバイデン大統領が16日、初の首脳会談を行った。共同声明で約半世紀ぶりに台湾に言及したことが着目されている。が、そういったことは他の報道に任せたい。ここで書きたいことは、首脳外交の内容そのものではない。

 今回、どうしても頭から引っかかって離れないのは、政府・与党側が「バイデン大統領と『初めて対面で』会談した」ことを「外交成果」と喧伝(けんでん)し、さらには「政権浮揚につながる」と期待感をあらわにしていることだ。

 日本の政界ではそれは当然のことのように受け止められているが、ここであえて問いたい。「米国の大統領と初めて対面で会談した」こと自体を「外交成果」と呼ぶことは、本当に正しいのだろうか。少なくとも現時点において。(ジャーナリスト=尾中香尚里)

 ▽「対面で初めて」の意味は?

 確かにこれまで日本の首相は、米国の大統領と一刻も早く会談することに、妙に重きを置いてきた感がある。安倍晋三首相(当時)が2016年11月、米大統領選で勝利したばかりのトランプ次期大統領(同)に会うため、ニューヨークのトランプ・タワーへ押しかけて就任前のトランプ氏と会談したことを覚えている人も多いだろう。

会談前、トランプ次期米大統領と握手を交わす安倍首相=2016年11月、ニューヨーク(内閣広報室提供・共同)

 この時も安倍首相は、トランプ氏と「初めて対面で会談した外国首脳」となった。もっとも会談は「大統領就任前の非公式なもの」として扱われ、会談記録は「作成されなかった」という。さらにいえば、安倍氏の訪問以前に、トランプ氏はすでに他の何人もの外国首脳と電話で話していた。安倍氏はそんなことは気にすることなく「対面で初めて」を強調した。

 そして菅首相も「前任者に負けるな」と言わんばかりに、バイデン氏と「対面で初めて」の会談にこだわった。新型コロナウイルスの感染が再び爆発的に拡大し、3度目の緊急事態宣言の発令が視野に入ろうとしている時に、それでも訪米を優先したのである。

 ▽世界的感染拡大の中で

 「対面」が相手との信頼関係を構築する上で大きな意味を持つことは、筆者も全く否定するつもりはない。相手が「同盟国の首脳」であれば、なおさらだ。しかし、だからと言って、対面での首脳会談は今、本当に必要だったのか。筆者はどうしても、そこに確信が持てない。

 バイデン氏が1月に正式に大統領に就任してから、すでに3カ月近くが経過している。にもかかわらず、菅首相が「対面で初めて会談した外国首脳」になれたのはなぜか。

 新型コロナウイルスの世界的な感染拡大という状況の中で、バイデン氏は対面に頼らない形で各国首脳との協議を重ね、信頼醸成に努めてきたのだ。

 ホワイトハウスなどの発表をもとに、バイデン氏とハリス副大統領、ブリンケン国務長官、オースティン国防長官が参加した会談の実施回数を調べた朝日新聞の記事にはこうある。

 「(4月)10日までに4人がそれぞれ行った電話会談(計145回)、オンライン会談(計7回)、対面会談(計14回)のうち、会談回数は最多がフランスで8回、英国とドイツが7回で続いた。日本は6回で韓国やサウジアラビアなどと並んだ」

 問題は国別の実施回数ではない。コロナ禍において、バイデン氏との意思疎通を密にし、十分な信頼関係を醸成したいのなら、菅首相は「対面」という形式にこだわらず、電話やオンラインによる協議を積み重ねることを模索すべきだった。その方が、首相も国内にとどまってコロナ対策の陣頭指揮を自ら取ることができたし、バイデン大統領の側にも、コロナ禍で多忙な折に、自らを接遇するための余計な仕事をさせずにすんだのではないだろうか。今は非常時なのだ。

デジタル庁設置法案を可決した衆院内閣委=4月2日午前

 ▽「社会のオンライン化」どこへ

 菅首相は「デジタル庁創設」を政権の目玉に掲げ、霞が関のみならず国民の社会生活についてもオンライン化を進めようとしている。コロナ禍においても二言目には「オンライン」と繰り返し、対面での接触をなるべく避けるよう国民に呼び掛けている。

 ならば、自ら手本を示せばよかった。日米首脳会談もオンラインで行い、対面でなくても「信頼関係というのはかなり構築することができた」(会談後の首相発言)と言い切れる成果を打ち出せばよかったのだ。現に昨年11月の主要20カ国・地域首脳会議(G20サミット)はオンラインで開催され、菅首相も普通に参加したはずである。

 なぜそれをしなかったのか。菅首相自身も、実はオンライン社会を信用していないのではないか。そんな疑問さえ頭をもたげてくる。

 新型コロナウイルスの感染拡大で、多くの国民が対面の機会を大きく制約され、親しい人たちとの十分なコミュニケーションが取れずに苦しんでいる。ビジネスの現場では、オンラインで業務を進めるための投資で経済的な負担を強いられている例もある。教育現場では格差も生まれつつある。たとえオンライン化が将来的に求められていることだったとしても、短期的には国民は一種の「痛み」を強いられているのだ。

 ▽言葉の力失う菅首相

 そうやって国民にだけオンラインの「痛み」を押しつけておいて、自分だけは「対面の意義」を強調する。緊急時を理由に国民に行動変容を強いておきながら、自分だけは「平時」の立場で、特権のように日常の通りに振る舞う―。

 どこかで見た光景だと思ったが、思い出した。昨年12月の「ステーキ会食」である。あの時も国民に「5人以上の会食」に注意を呼びかけておきながら、自分自身は普通に会食していた。あれと同じである。

 こんなことを繰り返してきたから、菅首相の言葉は今や、国民を動かす力を失ってしまっている。だから「デジタル化」と言われても、国民が結束してその方向に進もうという機運が生まれない。コロナ禍でいくら緊急事態宣言やまん延防止等重点措置が出ても、人の流れを十分に止めることができない。

 首相の言葉に耳を傾けようという機運が、国民の間から確実に、少しずつ失われてきているのだ。原因は首相自身の言動にある。

 ▽緊急事態下の首相、その重みはどこに?

 もう一つ、指摘しておきたい。

 今回の訪米をめぐるいきさつを見ていて、10年前の東日本大震災で、当時の菅(かん)直人首相がヘリで原発を視察したことに対し、野党だった自民党が「緊急時に最高責任者が官邸を離れるとは」と罵詈(ばり)雑言を浴びせていたことを思い出した。

 今回、緊急事態宣言の発令がいつ、どこかに出されてもおかしくない、という文字通りの緊急時に首相が海外に出たことに、自民党からは何の批判も出ないのだろうか。

衆院決算行政監視委で答弁する菅首相=4月12日

 菅首相は訪米を前にした12日の衆院決算行政監視委員会で、立憲民主党の尾辻かな子議員に、コロナ禍での訪米について「(感染拡大が)さらにひどくなった時に、コロナ対策本部長がいない状態でどのように意思決定するのか」と問われ、こう答弁した。

 「本部長がいないときは本部長代理(加藤勝信官房長官)がいる。そこで必要であればちゅうちょなく対応する。危機管理上の対策はしっかりとっている」

 10年前の震災対応を取材した立場として「よくこんなことを平気で言えたものだ」とあぜんとした。だが、それ以上にこの答弁は「緊急時における首相の存在は、これほどまでに軽くてもいい」と自ら宣言したかのように聞こえて、むなしかった。

 コロナ対応において菅首相は、緊急事態宣言の使い方を間違えて、コロナ対策の『最後の切り札』を無力化してしまった―と以前に指摘した。だが、それだけではすまないようだ。

 今や菅首相は「総理大臣」という存在自体を無力化してしまったのかもしれない。

© 一般社団法人共同通信社