竹内まりやがアイドルだった時代「不思議なピーチパイ」それは奇跡のグッドタイミング♪ 1980年 4月24日 竹内まりやのシングル「不思議なピーチパイ」がザ・ベストテンで最高位(3位)を記録した日

人生の成功において最も大事なのは運、それもタイミング

『ワシントン・ポスト』の科学記者を経て、現在『ニューヨーカー』誌のスタッフ・ライターを務める世界的コラムニストのマルコム・グラッドウェルの著書『天才!成功する人々の法則』によると、人類の有史以来、世界の富豪とされる人々の実に20%が、1つの国の1つの世代に集中しているという。それが―― 1830年代生まれのアメリカ人である。ジョン・D・ロックフェラーも、アンドリュー・カーネギーも、J・P・モルガンも―― 皆、同じ世代だ。その理由について、グラッドウェルはこう推察している。

「1860~70年代、アメリカ経済は1776年の独立以来、最大の転換期を迎えていた。鉄道が敷かれ、ウォール街の重要性が増す。工業生産が本格的にはじまる。古い経済のルールが壊され、新たにつくられる。(中略)その転換期を迎えたときの年齢が重要だということだ」

そう ――1830年代生まれの彼らが、20代から30代の働き盛りのタイミングで世の中のパラダイムシフトに遭遇し、そこでうまく適応できたから、莫大な富を築くことができたのだ。これが、1840年代生まれでは若すぎて好機がつかめなかっただろうし、逆に1820年代生まれではものの見方が古すぎて、時代の変化に付いていけなかっただろう。

もちろん、1930年代生まれの人間が皆、成功したワケではない。富豪になった彼らは一様に先見の明と才能があった―― ということ。要は、その上で千載一遇の好機に恵まれたのだ。巷で言われる「人生の成功において、最も大事なのは才能でなく運。それもタイミング」なる言説は、こういうことである。

アイドル不在の70年代末、脚光を浴びた女性シンガーたち

そして―― それは、あの時代も同じだった。時に、1970年代末。キャンディーズが解散し、ピンクレディーがアメリカ進出で失速して、山口百恵は社会現象化してインテリが語る対象となり、いわゆるアイドルが不在になった時代の話である。その間隙を縫うように、様々な女性シンガーたちが脚光を浴びたのだ。

そう、太田裕美、庄野真代、渡辺真知子、八神純子、久保田早紀―― 彼女たちはアイドルではないが、しばしばフォトジェニックな対象としても扱われた。ちょうど1978年1月に『ザ・ベストテン』が始まり、テレビ映えのする歌い手が求められた時代である。

思えば、彼女たちは1954年~58年生まれと、ほぼ同世代だった。要は、20代前半のちょっと綺麗な歌の上手いお姉さんたちが、アイドルの代わりをさせられたのだ。そして―― その真打とも言うべき存在が、今回取り上げるディーバ、竹内まりやサンである。

愛らしいルックス、モデルのようなスタイル、少女漫画のヒロインのような名前、そしてポップでメロディアスな楽曲―― どこから見ても、彼女は紛うことなきアイドルだった。

バイオグラフィ・オブ・竹内まりや

話は少しばかり、さかのぼる。竹内まりやサンの生まれは、島根県簸川郡大社町(現・出雲市)。実家は1877年創業の老舗旅館の竹野屋、いわゆる地元の名家である。6人兄弟の三女だった。

小学生の時に早くもビートルズの洗礼を受け、ピアノと英語を習い始めたという。その後、中高時代は軟式庭球部に所属するなど、スポーツ少女の一面も見せた。高校は地元の伝統校、大社高校である。要は典型的な地方のお嬢さんだった。

そんな彼女に、高校3年の時に転機が訪れる。アメリカ・イリノイ州のロックフォールズ・タウンシップ・ハイスクールへの1年間の交換留学である。そこで生きた英語と、ワールドワイドな視点を身に着けたのだ。この経験が、のちの彼女の進路を方向づける。

1974年、留学のため同級生より1年遅れで、慶応大学文学部英文学科に入学する。早速、音楽サークルの「リアルマッコイズ」に参加し、そこで出会ったリーダーで2年先輩が、杉真理サンだった。2人はビートルズ好きで意気投合し、バンドでも共にする。当時のまりやサンのパートはキーボードとコーラスだった。

1978年11月デビュー、2年の遅れがグッドタイミング!

1978年3月、杉真理サンのレコーディングにコーラスで参加したことがキッカケとなり、オムニバスアルバム『ロフト・セッションズ』に誘われる。そして、あろうことか、音楽活動にのめり込むあまり、まりやサンは留年してしまう。

だが、このタイムラグが思わぬ幸運を呼び込む。2度目の大学4年時の1978年11月―― シングル「戻っておいで・私の時間」とアルバム『BEGINNING』で、まりやサンは歌手デビューの機会を得る。思えば、彼女は交換留学と4年次の留年で計2年、同級生から遅れを取ったが、結果的にこの2年の遅れが、一世一代のチャンスとなって帰ってくる。

―― 黄金の6年間だ。
1978年から1983年にかけての東京は、最も面白く、猥雑で、エキサイティングな時代だった。シングルの座組は、作曲:加藤和彦、作詞:安井かずみと、当時、音楽界で最も憧れの目で見られた夫妻の作品。ポップス全開のメロディは、時代の空気と合致していた。

1979年、サードシングルの「SEPTEMBER」で竹内まりやはレコード大賞新人賞を受賞する。作詞:松本隆、作曲:林哲司。今も歌い継がれる名曲だが、意外にもオリコン最高順位は39位だった。

資生堂のCMソング、4枚目のシングル「不思議なピーチパイ」

だが、心配はいらない。次の4枚目のシングルで、彼女はチャートの上でも爪跡を残す。「不思議なピーチパイ」である。リリースは1980年2月5日。作曲・加藤和彦、作詞・安井かずみの座組はデビューシングルと同じ。セールスは実に40万枚にも達した。

同曲を一躍有名にしたのは、資生堂のCMである。当時は毎シーズン、資生堂とカネボウのキャンペーンCM対決が繰り広げられ(詳しくはリマインダーの大野茂教授のコラム『資生堂 vs カネボウ CMソング戦争』をご参照ください)、80年春の資生堂のキャンペーンコピーが “ピーチパイ” だった。『ほぼ日刊イトイ新聞』の記事によると、これを歌のタイトルにする際、糸井重里サンが “不思議な” を付けたという。で、不思議なピーチパイ。一気に外国の絵本のような世界になった。す、すげぇ!

 恋は初めてじゃないけれども
 恋はその度ちがうわたしをみせてくれる
 不思議な 不思議な ピーチパイ

CM に登場するのは、メアリー岩本時代のマリアンである。これが日本の芸能界のデビュー作。まだ17~18歳くらいだろうか。ショートカットが初々しい。

この CM の見所は、サビの「♪ かくしきれない気分は ピーチパイ」のところで、シャボン玉を膨らましながら、マリアンがそれを目で追いつつ、弾けた瞬間、思わず目をつぶるところ。この可愛いこと!

それは奇跡のタイミング、紛うことなきアイドル竹内まりや

一方、歌番組でこれを披露する竹内まりやサンは、見るからに JJ 風の女子大生だった。オシャレで、可愛くて、ポップ。こちらの見所は、歌い出しのところのカメラ目線のウインクである。

 思いがけない ああ Good timing
 現われた人は Good looking

そう、まりやサンは決まって2フレーズ目の「Good looking」のところでウインクをした。当時、いたいけな少年だった僕は、毎度そのシーンに遭遇する度にドキドキしたのを覚えている。彼女は紛うことなきアイドルだった。

同曲は、3月20日に『ザ・ベストテン』のスポットライトで初登場すると、翌週からベストテンにランクイン入りし、徐々に順位をUP。4月24日に3位と最高記録を更新した。結局、5月15日まで8週間も10位以内にとどまるという爪跡を残す。

思えば、それは奇跡のタイミングだった。
この年、山口百恵は3月7日に三浦友和との婚約を発表した。事実上、それはアイドル活動の終了宣言を意味していた。一方で、次のアイドル松田聖子がスポットライトで『ザ・ベストテン』に初登場するのが、同年7月3日である。

そう、「不思議なピーチパイ」のヒットチャートは、見事に “アイドル不在” の時代に収まっていたのだ。

後年、まりやサンはこの時代を振り返り、バラエティ番組などでアイドル紛いの仕事をさせられるのに戸惑っていたと語っている。とはいえ―― そんな目標を見失いつつあった彼女が相談相手に選んだのが山下達郎サンで、そこから2人の仲は急接近したという。

―― やはり、アイドル時代はあってよかったのだ。

※ 指南役の連載「黄金の6年間」
1978年から1983年までの「東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった時代」に光を当て、個々の事例を掘り下げつつ、その理由を紐解いていく大好評シリーズ。

■ 黄金の6年間:ジュディ・オング「魅せられて」シルクロードブームの源流を辿る道…
■ 佳山明生「氷雨」のヒットと黄金の6年間、街に流行歌があふれていた時代
■ 前時代の歌番組を葬った「ザ・ベストテン」それは黄金の6年間が幕開けた瞬間!
etc…

※2019年4月24日、2020年3月20日に掲載された記事をアップデート

カタリベ: 指南役

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