共通するのは弁髪にヒゲ、荒っぽいファイトスタイル。米国マットでモンゴル人を名乗るレスラーが活躍した時代がある。最初に紹介するのは、“踏み潰し屋”の異名を取ったカナダ出身のモンゴリアン・ストンパーだ。
地元カナダでデビューした後、米国マットへ殴り込みをかけ、1963年ごろにモンゴル人に変身したとみられる。その名の通り、得意技はストンピング。倒れた相手をただひたすら踏みつける攻撃で恐れられた。米国武者修行中のトーキョー・トムことアントニオ猪木と「アジア人コンビ」を組んだこともある。
71年1月、日本プロレスにザ・ストンパーとして初来日した際は、弁髪ではなくモミアゲを強調した風貌に変身。米国でパートナーだった猪木らを相手に得意のラフファイトを披露した。
60年代末には「ザ・モンゴルズ」なるタッグチームが登場。カナダ出身のジート・モンゴルとクロアチア出身のベポ・モンゴルのコンビだ。見た目はやはり弁髪にヒゲ。ともに人並み外れた怪力が売りで、パワー殺法を武器にWWWFマットで暴れ回った。
72年7月、日本プロレスに初来日。リーダー格のジートは「インタータッグ王座を頂きに来た」と宣言したが、時期が悪かった。日プロは団体として末期だったため、挑戦はかなわなかったのだ。それでも独立宣言した馬場の日プロ最後の試合で対戦相手を務めるなど、一定の評価は得た。
73年にベポが脱退して“ロシアの白熊”ニコリ・ボルコフに変身したが、ここでモンゴルズは終わらなかった。代わりに米国出身のボロ・モンゴルが加入。ベポに劣らぬパワーファイターを得た新生モンゴルズは、米国マットで猛威を振るう。
74年4月に来日して、新日本プロレス「第1回ワールドリーグ戦」に参戦。ボロは予選リーグで敗退したが、ジートが決勝リーグ進出を果たし、面目を保った。さらに76年7月には新日プロ「アジアリーグ戦」にモンゴル代表として参加。ボロが決勝リーグに進出し、爪痕を残した。
米国に戻ってほどなく、ボロが脱退してマスクド・スーパースターに変身。モンゴルズは解散を余儀なくされた。ちなみに、モンゴルズでは入れ替わりとなったベポとボロだが、それぞれボルコフ、スーパースターに変身後の77年3月に新日プロに参戦してタッグ結成。思わぬ合体でモンゴルズファンを喜ばせた。
その後も70年代末にはキラー・カーンが登場。2000年代に入っても、米インディ系団体にはモンゴル人を自称するレスラーが存在したという。日本では01年に元横綱朝青龍の実弟ブルー・ウルフがデビューしたことで、モンゴル人レスラーは新時代に入った。(敬称略)