「天国のマチカネコイノボリへ」 河内調教師と田中厩務員の想い

マチカネコイノボリは鯉のぼりの季節にデビューした

【赤城真理子の「だから、競馬が好きなんです!!!」】

白状します。私はトレセン記者になった当初、河内洋調教師が「元ジョッキー」であることを知りませんでした。競馬ファンの皆さんとは大きな隔たりがあると思いますが、これが「競馬知識ゼロ」のリアルなのです…。

記者になり、先輩記者や調教師の方々から教えていただいたすさまじい「河内洋伝説」の数々。誰もが目を輝かせ、その目に憧れや羨望の色を映しながら話してくれるエピソードを聞くうち、私も河内先生とお話しする際はいつもにも増して〝ド緊張〟するように。でも、先生ご自身はそれを全く自慢したりすることはなく、むしろ騎手時代のことを自ら話されるのはとても稀でした。弟弟子である武豊騎手との壮絶な一騎打ちを演じ、わずか7センチだったと言われるハナ差で制したダービーについてお聞きしたときも「泣いたとか言われてるけど、俺の記憶では泣いてはないよ」と少し微笑みながら、懐かしそうにポツリと一言だけ。決して多くを語らない。先生のこういうところが、ファンを引きつけてやまなかったのかもと思った次第です。

さて、そんな河内先生に、私は以前「先生が忘れられない馬って、もし1頭挙げるならどの子ですか?」と、今思えばぶしつけな質問をしたことがあるんです。普通はそんなの挙げられるか!って話なのですが、河内先生は少し考えて、

「ある意味一生忘れられないのは…マチカネコイノボリかな」

と、一頭の馬について教えてくれたのです。

メジロラモーヌやニシノフラワー、ダイイチルビー、サッカーボーイといった名馬たちの名前を勝手に予測していた私。競馬歴が浅いため申し訳ないのですが、マチカネコイノボリ? どんな子だろうって、全く知らなかったのです。すると、

「コイノボリって名前だから、馬主さんからこどもの日の週にデビューさせたいっていう希望があったみたいでね。その年(1987年)は5月5日が火曜日だったんで、週末の9日にデビューが決まったんや。当然、新馬戦はないから、いきなり未勝利からのデビュー。当日は重賞かってくらいオーナーの関係者が見に来られてたんで、こっちも〝何が何でも勝たさなあかん〟って相当なプレッシャーだったよ」

と、当時を振り返ってくれた河内先生。そのレースは見事に勝ったそうで、「大勢の関係者に見守られながら引き揚げてきた時は心底ホッとした」と笑っていました。

そんなマチカネコイノボリは、パドックでお客さんに見せる用として、コイノボリのメンコを赤と青の2種類持っていたそうです。かわいいエピソードだなぁと、話を聞いているうち私もどんどんマチカネコイノボリに引かれていったのです。

しかし、でした。

河内先生は「人気だけじゃなく能力のある馬やった。いずれは重賞でもって思ってた。けど、最後は殺してしまったんや」と、悲しそうに言ったのです。レース中の骨折による予後不良。河内先生は馬から投げ出されたそうですが、倒れているマチカネコイノボリを一目見て、「だめだ」と分かったそうです。

「あれは京都の1400万やった。その日も1番人気でな、いつも通り後ろでじっくりためておいて、最後の切れる脚を使わすつもりやったんやけど…気づいたら放り出されてた。あの頃は競馬場の整備技術も今より低かったし、馬場のアップダウンが激しかったんやな。スピードのある馬にとっては、毎レース蓄積される脚元への負担っていうのも大きかったんやと思う」

それは、先生が「殺した」のと全然違うんじゃ…。私はそう思ったのですが、「いや、自分が乗ってるときに死んでしまったんや。騎手なら少なからず〝俺が殺した〟って思ってしまう気持ちはあるよ」と。

つらいことを思い出させてしまったと思いました。でも、だからこそ、名前すら知らなかったマチカネコイノボリについてもっと知りたい。そう思ったのです。

彼は伊藤雄二厩舎の所属馬だったと聞きました。現在、私が担当させていただいている梅田厩舎に「元伊藤雄二厩舎の助手さん」たちが多いのを思い出し、そのうちの一人である寺田助手に「マチカネコイノボリを担当されていた方ってご存じですか?」と質問してみたんです。すると、

「懐かしい名前ですねぇ。その子なら田中さんが担当してましたよ」と。

田中一征厩務員。何を隠そう、ファインモーションやエアグルーヴの担当者さんじゃないですか!

現在は梅田厩舎で、寺田助手と隣同士の馬房を担当している田中厩務員。とても優しく話しやすい方なのもあり、早速マチカネコイノボリについてお聞きしてみました。

「まさか…あの河内先生が忘れられない馬って言ってくれたんですか。本当に?」

コイノボリの名前を出したとたん、目を丸くした田中厩務員。

「コイノボリは僕にとっても大切な、大切な、一生忘れられない馬なんです。でもまさか、河内先生もそう思ってくれてたなんて。赤と青のメンコはね、本物のコイノボリを買ってきて、馬具屋さんに特注で作ってもらったものなんですよ」と感慨深げに話し出してくれました。

マチカネコイノボリ。田中厩務員によると、「性格が優しい、馬房を汚さない、そして走る」という担当者としては最高の競走馬だったそうで、

「人懐こくてね。かわいくてかわいくて仕方なかった」そう。それに、

「トレセンにいてもイレこんだりしないから、デビューから最後まで、ほとんどずっと在厩してた馬なんですよ。どの馬よりも長く、濃い時間を過ごしました」と。彼の最後については、

「脚が折れてひっくり返り、ラチの下に滑り込んで行ってしまったんです。その時はもうパニックで馬のことしか考えられなくて、急いで現場に向かったんですけど、途中で向こうから河内先生が歩いてきて…」

「大丈夫ですか!」と叫んだ田中厩務員。

「俺は大丈夫」と河内調教師─当時の河内騎手が返します。

「う…馬は…!?」悲痛な質問に、河内騎手は少し顔を歪めながら、首を横に振ったそうです。

「それで全てが分かりましたが、とにかく近くに行きたかった。通常、予後不良となる瞬間には担当者のメンタルを考慮して立ち会わせないものなのですが、無理やり〝僕は大丈夫なんで、居させてください!〟って頼んで。コイノボリは、僕の腕の中で、ゆっくり動かなくなりました。あの時のコイノボリの顔や、あったかさや、普段からの一つ一つのしぐさ…全部忘れられません」

田中厩務員は、昨年の優駿エッセイ大賞に本名で応募し、「ワタリに皇帝」という作品で自身3度目となる佳作を受賞されています。

「僕はいつか、コイノボリとの話を書いて、優駿エッセイ大賞に応募するのが夢なんです。いつになるかは分からないけど、きっと書き上げます」

とても多才で、馬に対する想いも深い田中厩務員。それはきっと、文章のプロが書くより…いいえ、世界中の誰が書くよりも素敵な「マチカネコイノボリの物語」になるだろうな。

河内調教師や田中厩務員にとってそうであったように、今もどこかの競馬ファンの記憶の中で生き続けているであろうマチカネコイノボリ。もし、これを読んでくださった方の中に、彼について覚えている方がいたのなら…。あなただけのエピソードを、東スポ宛てに送っていただければ幸いです。私が責任を持って田中厩務員に届けますし、きっとエッセイ執筆の際には、糧にしてくださると思います。

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