鎌倉 瑞泉寺の歴史的な見どころ4選|吉田松陰の志をも励ました、歴史の主役たちに支持されたお寺

鎌倉の奥座敷、二階堂にある瑞泉寺。
季節の草花が楽しむことができ、そして鎌倉五山に次ぐ関東十刹に数えられる由緒ある寺院です。

そんな瑞泉寺は、鎌倉幕府末期の争乱時期に建てられたもので、南北朝、室町、江戸から幕末へと様々な時代の移り変わりを見つめて来ました。

ここでは瑞泉寺の建立の頃からの激動の時代に絡んだエピソードをご紹介します。

瑞泉寺の建立は、鎌倉時代末

1327年、鎌倉幕府が滅亡へのカウントダウンが始まったころ、夢窓疎石禅師が鎌倉は二階堂の地に瑞泉院をたてました。それがが瑞泉寺の初まりです。

翌年、寺域に新たに観音堂、山頂に徧界一覧帝(現在は非公開)を設けます。

夢窓疎石は鎌倉時代には北条高時公とその母堂から深く尊崇され、南北朝の時代には後醍醐帝からも足利家からも帰依されました。

夢窓疎石が作った瑞泉寺庭園

山号の錦屏山(きんぺいざん)は、寺を囲む山々の紅葉が錦の屏風のように美しいことから名付けられたそうです。優れた作庭家でもあった夢窓疎石は、その錦屏山を背景として庭園を造ります。

疎石の作庭した庭園

夢窓疎石は足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈って建立した京都嵯峨野の天龍寺や、足利尊氏によって創建された京都の等持院などの世界遺産の庭園を手がけています。

鎌倉では、建長寺や円覚寺の庭園、浄智寺の境内も手がけています。

足利家の菩提寺

南北朝時代には足利鎌倉公方に菩提寺となり、足利基氏、氏満、満兼、持氏のお墓と伝えられる五輪塔が残されています。(非公開)

初代鎌倉公方の足利基氏は動乱の南北朝期にあって争乱に明け暮れた生涯でした。

そんな彼は、夢窓疎石が造営した瑞泉寺の偏界一覧亭で催された観花の会や、花見や歌会などで、争乱に疲弊した心の休息を得ていたようです。

この激動の時代と禅、そして美しい庭を心の拠り所にしたその頃の人々の様子を
想像するとこのお寺の奥深い素晴らしさが見えてくるような気がします。

山頂の徧界一覧帝は、ハイキングコースから見える!

冒頭に書いた徧界一覧帝(現在は非公開)は、天園ハイキングコースからその建物の一部を見ることが出来ます。

またその辺りには鎌倉ならではのやぐらが沢山あって、『北条首やぐら』もその中にあります。鎌倉幕府の滅亡の折に東勝寺で、自刃した北条高時の首が葬られているとの説です。

こちらの写真は、そのハイキングコースに建てられている道標です。

歴史に興味のある方はハイキングがてら、瑞泉寺の創建当時からを歩いて見るのも楽しいですよ。

但し、山深い場所でこれと言った道案内は無いのでよく調べてからの訪問をおすすめします。

どこも苦地蔵

瑞泉寺のお庭の一角に地蔵堂があります。
このお地蔵様、鎌倉時代に造られた地蔵菩薩で、鎌倉二十四地蔵の第七番でもあります。

元は扇ケ谷の、今は廃寺になっている智岸寺の本尊だったそうです。

どこも苦の由来

そのころ智岸寺の地蔵堂の堂守が貧しさのあまり『もっと楽なところへ移りたい』と逃げ出そうとしていました。

そんな時、夢枕にこのお地蔵様が立ち『どこも どこも』と告げ、夢から覚めた堂守は『苦しいのはどこへ言っても同じ』と悟ったと言います。

そこからこの『どこも苦地蔵』という俗称がついたそうです。

流転のお地蔵様

ところが「どこも苦しいのは同じだよ」って告げたお地蔵様は、智岸寺が廃寺になった戦国時代の終わりか江戸時代の初め頃『宝戒寺』に移される事に。

程なく鶴岡八幡宮裏の十二坊の一つ、正覚寺の本尊に迎えられて江戸時代の大半はここで過ごします。

しかし明治に入って『廃仏毀釈』の嵐が吹き荒れると、十二坊は廃され正覚寺も廃寺となり、建長寺の妙光庵へ。

しかしここも廃寺になり、仏師の後藤本家へ。

それを横浜の富豪・吉村家が引き取り、大正六年、瑞泉寺に地蔵堂が新築されてここに落ち着き今に至っております。

『どこも、楽ではないよ〜』と身を持って教えてくれたお地蔵様ですね。

鎌倉二十四地蔵のご朱印集めも、こんなお地蔵様の歴史を知ればさらに有り難くいただけるのではないでしょうか?

むじなちゃん伝説

お庭の鐘楼の脇に『むじな塚』があります。知らなければ素通りしそうな場所ですし、目も止めることもあまりないでしょう。

でも、目に留まってしまうと、何これは?なんでここに?
それは『むじな』(アナグマ)です。このむじなちゃんには善行むじなと、悪戯むじなの2つの伝説があります。

善行むじな

善行むじなは開山から境内に住み着き、寺男に姿を変えてよく働き、法話にも耳を傾け立派に往生したので墓を作って供養したと。

悪戯むじな

悪戯むじなは瑞泉寺の爺さんに化け、仲良しだった永安寺の爺さんを訪ねてはご馳走にありついた。

永安寺ではあまりに回数が多く、瑞泉寺を訪ねても爺さんからお礼の一言もなく怪しいことに気が付き打ち明けると、瑞泉寺も恐縮し首尾を捕まえたというお話。

むじなってどんな動物?

塚の写真で見る限りはタヌキです。調べて見るとやっぱりタヌキでした。善行むじなちゃんも、悪戯むじなちゃんも化けてる所がやっぱりタヌキですね^^

瑞泉寺と吉田松陰

瑞泉寺の山門の左側にひっそりと『吉田松陰留跡碑』があります。

時代は幕末へ。
嘉永四年(1851)6月13日、初めて吉田松陰は瑞泉寺を訪れます。

母方の伯父、竹院和尚が瑞泉寺の住職をしていたからです。そこで二人は十年ぶりの再会をして家族の様子などを語ります。

次に訪れたのは嘉永六年(1853)5月25日
この時はゆっくりと鎌倉に滞在し、竹院和尚と詩文を論じたり、江ノ島で遊んだりして
6月1日江戸に戻ります。

その2日後、6月3日にペリーが浦賀にやって来ます!

松陰の覚悟

そしてその年の9月13日、瑞泉寺を訪れた松陰は心に秘めた覚悟を伯父である竹院和尚に打ち明けます。それは海外に赴き、欧米列強の力の源泉を見極めようとする大志でありました。

翌1854年、同郷の金子重輔と共に瑞泉寺を訪れた後、ペリー艦隊が停泊している伊豆下田に向かいます。

海外への密航を企てて失敗した下田踏海事件に先立って、伯父に別れを告げるための訪問でした。

竹院和尚と松陰

松陰は禅理に立った竹院和尚の高論に感服したことを兄への書簡に記しています。
竹院和尚との対話によって国難に一身を捨てて行動する決意を固めたのではないかと思われます。

4度の松陰の瑞泉寺訪問の中で、どんな会話ややりとりがあったのか?

時代が大きく変わる舞台の一幕がここにあると思うと今は碑を見ることしか出来ませんが、その場へ行って同じ空気に触れてみたくなりますね。

瑞泉寺の歴史まとめ

鎌倉時代末から現在まで、様々な時代の中で人々に信仰されて来た瑞泉寺。

今はお花やお庭目当てで訪れる方が断然多いのですが、こんな歴史の逸話を知れば違う楽しみ方も出来ますね。

ぜひこの記事を片手に、瑞泉寺を散策してみてはいかがでしょうか?

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