ビリー・ジョエルとスーパーモデル、あっという間に完成した「イノセント・マン」の秘密 1983年 8月7日 ビリー・ジョエルのアルバム「イノセント・マン」が日本でリリースされた日

前作からわずか10か月で発表された「イノセント・マン」その理由とは?

1982年10月のビリー・ジョエルの『ナイロン・カーテン』は自分にとって最初に担当したアルバムでしたので想い出深いものあります。そして次作『イノセント・マン』に関しては、『ナイロン・カーテン』からわずか10か月後の1983年8月に発表されました。これほどのスーパーアーティストが、わずかな期間で新譜を発表した事自体は奇跡に近いものがありました。

そもそも締め切りが迫ってこないと曲創りの気合いが入らないし、書き始めたところで、頭を捻りあげて曲を絞り出さねばならないほど遅筆のビリーが、なぜにこんなに短期間でアルバム完成させる事ができたのか… 本当に驚きました。

実は、謎解きでもなんでもありませんが、その理由は “そこにいい女がいたから” だけです。このあたりのことは過去にアップしたコラムでも何度か軽く触れていますが、あらためて彼のインタビュー集を参考にしたり、そして推測を交えてこの10か月間を整理してみようと思います。 (※1:過去のコラムも是非ご覧ください)

モテ期のビリー・ジョエル、サン・バルテルミー島での運命的な出会い

テーマは “モテ期を迎えたビリー” です。つまり今月で72歳になるビリー・ジョエルの33~34歳当時の女性関係ということですが、1982年『ナイロン・カーテン』レコーディング中に、ビリーは最初の妻エリザベスと離婚しました。この年、自身のオートバイ事故で入院。ピアニストが親指激しく損傷。決して望んだわけでないのに離婚成立と、あのアルバムが重く暗くなる理由はシンプルでした。そしてそこから彼を取り巻く状況が大きく変わっていきました。

実はプロデューサーが同じフィル・ラモーンいうことで、ビリーとポール・サイモンはかねてより交流がありました。ポールは離婚で落ち込んでいたビリーを励まし、気分転換をかねてカリブ海に浮かぶある島へ行くよう強く勧めたのです。

ビリーは勧められるまま、友人夫婦を誘って1982年末のクリスマスホリデーに、ポール推薦のサン・バルテルミー島へ向かったのです。ファンの間では有名な話ですが、ここでクリスティ・ブリンクリーとの運命的な出会いが待ってました。こういう流れで2人は知り合って、ついには結婚ということになるのですが、実際はそう単純なものでもなかったようです。

クリスティ・ブリンクリー、エル・マクファーソン、そしてホイットニー・ヒューストン

島で日焼けし過ぎて、間が持たなかったビリーは、ホテルのバーの片隅にあったピアノでなにげに「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」を弾いていました。弾き終え顔をあげると、なんとそこには当代きってのスーパー・モデルのクリスティ・ブリンクリーと新人モデルのエル・マクファーソンが立って、じっとビリーを見つめていたのです。

当時のエルはまだ絶賛売り出し中。もちろんクリスティの方が先輩で格も数段上。2人は互いに知り合いで、エルにとってはクリスティはあこがれの先輩。2人は別々の用事で偶然この島に来ていましたが、どちらも、この男がビリー・ジョエルということは知らなかったのです。でも男なら分かりますが、そういうこと関係なしに、ビリーは美女たちと会話が出来て嬉しかったに違いありません。

この時のビリーのコメントが最高です。モデル2人の存在に気付いたビリーは何気に鍵盤に目線を落として感謝しました。

「ピアノよ、よくやったお前のおかげだ」

ピアノをはさんで美女2人と話が盛り上がっていましたが、そこへもうひとりの少女が「自分の歌を聴いてください」と割り込んできました。もちろん彼女はビリー・ジョエルと知ってのアプローチでしたが、そりゃモデルと話している方が楽しいです。ビリーは「うっとうしい子供だな」と軽くあしらっていたようです。

ところが実は、その少女こそがホイットニー・ヒューストン。彼女はこの3年後にデビューしますが、後になって、あの時の少女が彼女だと知ったビリーは大後悔しています。これもビリーのコメントが残っています。

「ホイットニーの第一発見者になりそこねたよ」

ニューアルバムの曲作りは進んでいない? 浮名を流すビリー・ジョエル

当時のビリーは離婚後ロングアイランドからマンハッタンに戻っており、セントラル・パークに面したサン・モリッツ・ホテルのペントハウスにピアノも持ち込み、住居兼仕事部屋として長期間借りていました(ちなみに現在のリッツ・カールトン・ホテルです)。

なにしろ若くしてエリザベスと結婚していたし、大成功してからも妻がマネージャーだったので女遊びすら出来なかったビリーですが、離婚してからは憑きモノがとれたように人生最高潮でモテ期を迎えていたようです。

この島で出会った頃、実はクリスティは、まだシャンパンメーカーの御曹司であるレーサーと付き合っていました。そういう事情もあり、NYへ戻ってからはビリーはエル・マクファーソンにご執心になってます。後に “THE BODY” というニックネームがつくほどの完璧なスタイルを持つ彼女ですが、並ぶとビリーとは20cmほどの身長差があったようです。この長短2人のデートはアチコチで目撃され、ゴシップ紙を数回賑わしていたのが1983年1~3月頃のこと。

ビリーはエルだけでなく数々の女性と浮名を流して遊び惚けていたので、ニューアルバムの曲作りは、全く進んでいないはずです。この時点で、まだクリスティとは何もありません。

クリスティとの恋愛と、具体的になった「イノセント・マン」

そして3月クリスティに悲しいニュースが飛び込んできました。付き合いはほとんど終わっていたらしいのですが、ボーイフレンドのレーサーが事故で亡くなったのです。彼の死の記事を目にしたビリーはクリスティを慰めるために、カリブの島で別れて以来初めて連絡をとっています。ちょうど、この頃からエルも人気急上昇。仕事も忙しくなりパリにいることが多くなってきました。

この電話をきっかけにビリーとクリスティは会う機会が増え、いよいよ本格的な恋愛状態にかわってきます。おそらくこれが4~5月頃です。このあたりからですね。『イノセント・マン』が急に具体的なものになってきました。

男なら誰しも痺れあげるエピソードがあります。クリスティとのデートの後、初めてサン・モリッツのペントハウスに誘った晩、帰宅すると部屋に人影があったのです。なんとそこにパリから突然戻ってきたエルがいた、と。これって他人事じゃないですね。この状況でのビリーのコメントには笑ってしまいます。

「フランク・シナトラだったら二人同時に、うまく相手できたはずだよ」

アルバムの作品は全てクリスティへのラブソング

アルバム『イノセント・マン』の発売は8月7日(日米同時)です。この付き合い始めた5月頃からの3週間ほどでアルバムの曲を書き終え、あっというまにレコーディングも終えています。

実は1983年7月3日、NYのCBSスタジオにはビリー・ジョエルと小林克也さん。東京のスタジオに桑田佳祐さんというキャスティングでTBSラジオの特番放送がありました。このため私は部長と2人でNYへ出張していますが、NYのスタジオには期待通りに光り輝く美しいクリスティ・ブリンクリーも顔出していました。CBSスタッフも、ビリーよりもクリスティに興奮状態で、私もちゃっかり一緒に写真を撮らせてもらいました。

翌1984年、彼女はビリーの日本公演時にも同行してましたが、スーパーモデルなのに気取ったところを感じさせず、気さくに仲間とワイワイと盛り上がる、明るい典型的なアメリカンな女性でした。

ビリー本人も語っている通り、この時、クリスティはビリーにとっての “ミューズ” でした。そしてアルバムの作品は全て彼女へのラブソングです。彼女との出会いやトキメキが、高校生時代の自分を思い出させ、そのテンションが当時ラジオで聴いていたフォー・シーズンズやスプリームスなどへのオマージュとなり、“60年代音楽へのリスペクト” がこのアルバムの重要な要素になっています。

2人は1985年3月に結婚しましたが、その時のビリーのコメントは有名です。

「この結婚は、全米中の背が低い男に希望を与えたと思う。自分ですら、こんな素敵で背の高い女性を妻にできたのだから」

かくして、クリスティの存在がビリーに数週間で曲を作らせ、スーパースターにもかかわらず前作より1年以内にアルバムを発表させました。そして幸福感溢れる『イノセント・マン』は結果700万枚のメガセールスを記録。女のチカラってすごいです。

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ビリー・ジョエルの新しいキャリア、アルバム「イノセント・マン」は緊急発売!

(※1:過去のコラムはこちらから覧いただけます) ■ 『松田聖子もオモテナシ ♡ ワンパク坊主、ビリー・ジョエルの素顔のままで』
■ 『ビリー・ジョエルの新しいキャリア、アルバム「イノセント・マン」は緊急発売!』
■ 『ビリー・ジョエルやスプリングスティーン… 洋楽アーティストの様々な宣伝販促物』

カタリベ: 喜久野俊和

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