江戸時代、瀬戸内有数の商業地として繁栄した玉島の港町。
玉島の歴史の名残を今に残す場所があります。
それが玉島の中心部、羽黒山に鎮座する「羽黒神社(はぐろ じんじゃ)」。
玉島の発展を見守った、玉島の鎮守(ちんじゅ=地域の守り神)です。
また羽黒神社は、オリジナリティあふれる個性的で芸術性な御朱印でも話題になっています。
羽黒神社の歴史や魅力を紹介しましょう。
羽黒神社は江戸時代の玉島干拓のために備中松山藩主が建てた鎮守
羽黒神社は、玉島の中心部の町中に「羽黒山(はぐろさん)」と呼ばれるコンモリとした小高い丘の上にあります。
羽黒神社への参道は、羽黒山の東・西・南の三か所。
このうち東と西の参道は、車でも登れます。
駐車場は、境内の西側です。
実は、玉島一帯はもともと海でした。
江戸時代前期に備中松山藩によって干拓され、広い土地が生まれたのです。
羽黒神社は松山藩が玉島一帯を干拓する際、干拓の成功と干拓で生まれる土地の安寧(あんねい)を願い、藩主の水谷勝隆(みずのや かつたか)が万治(まんじ)元年(1658年)に祀った神社。
以来、玉島の鎮守として地元の住民に親しまれています。
干拓後、現在の玉島中心部には港がつくられ、周辺に生まれた港町は「西の浪速(なにわ)」と呼ばれるほど、瀬戸内有数の商業地として発展しました。
そのため羽黒神社は、成功した商人や北前船(きたまえぶね)での取引で玉島に来た商人たちに崇敬されたのです。
羽黒神社の社殿は、規模のわりに装飾がとても多く、しかも装飾がとても細かく芸術的。
羽黒神社は、玉島がかつて商都として繁栄した歴史を今に伝えているのです。
平成30年(2018年)の春には、境内にある玉垣(たまがき)と船絵馬が日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間 ~北前船寄港地・船主集落~」の構成文化財として認定されました。
羽黒神社の見どころ
羽黒神社には、見どころがたくさんあります。
そのなかから、とくに押さえておくべきものを紹介しましょう。
拝殿
拝殿は、神社で祀っている神様を拝むための建物です。
羽黒神社に詣でたら、まず拝殿で拝みましょう。
羽黒神社の拝殿は、江戸時代後期の安政元年(1854年)に再建された、とても古い建物です。
一見、普通の神社の拝殿に見えますが、装飾に注目してください。
さまざまな部分に細やかな装飾が、たくさん施されています。
装飾の多さ、装飾のこだわりかたは、玉島がかつて商業都市として繁栄した証拠。
裕福な商人が多かったからこそ、多くのこだわりの装飾がなされたのです。
紹介したのは、ごく一部。
ぜひ、じっくりと観察してみてください。
からす天狗
拝殿の屋根の上に、神社や町を見下ろすように座っているのが「からす天狗」です。
羽黒神社は、山形県鶴岡市の羽黒山(はぐろさん)から勧請(かんじょう:神社の神霊を呼びよせること)されました(詳細はのちほど紹介)。
羽黒神社が祀られたときに、からす天狗も伝えられたといわれています。
今では、からす天狗は羽黒神社を象徴するキャラクターとして親しまれるようになりました。
さらにからす天狗をモチーフにした町おこしのゆるキャラ「はぐろん」が登場したり、春の祭ではからす天狗の仮装大会がおこなわれたりしています。
からす天狗は、玉島の町のマスコットキャラクターでもあるのです。
本殿
拝殿の後ろ側にある大きな建物が本殿。
神様が祀られている建物です。
羽黒神社の本殿は、江戸時代後期の嘉永4年(1851年)に再建されたもの。
拝殿同様に、とても古いです。
また拝殿と同じく、本殿も装飾に注目してみましょう。
本殿の正面には左右2体の「迦陵頻伽(かりょうびんが)」の絵柄。
人間の上半身を持った想像上の鳥で、天界にいて非常に美しい声で鳴くといいます。
その上には卍があり、かつての神仏習合の名残です。
本殿にも細やかなこだわりのある装飾がたくさん施されています。
本殿の装飾のなかでもとくに注目なのが、七福神です。
また、本殿のまわりにも七福神像が建てられています。
拝殿と同じように、紹介した装飾はごく一部です。
ぜひ、現地でいろいろ探してみてください。
六角石灯籠(倉敷市指定建造物)
「六角石灯籠(ろっかく いしとうろう)」は、本殿の左右に一対あります。
羽黒神社を祀った備中松山藩主・水谷勝隆が、元禄5年(1692年)に寄進したもの。
六角石灯籠は、羽黒神社にあるもののなかで現在に残る古いもののひとつです。
そのため六角石灯籠は、倉敷市指定文化財となっています。
境内社
境内社(けいだいしゃ)とは、境内に祀られている本殿以外の神社です。
羽黒神社の境内には、境内社がたくさん祀られています。
そのなかから、注目の境内社を紹介しましょう。
菅原神社、水谷神社・住吉神社、和霊神社
本殿の向かって左奥側に鎮座するのが、菅原神社(すがわら じんじゃ)、真ん中が水谷神社(みずのや じんじゃ)・住吉神社(すみよし じんじゃ)、右側が和霊神社(われい じんじゃ)です。
3つの境内社が並んでいます。
左の菅原神社は、菅原道真(すがわらのみちざね)を祀る神社です。
学問の神様として有名ですね。
中央の水谷神社は名前のとおり、玉島の干拓をして羽黒神社を建てた水谷勝隆を祀っています。
また勝隆のあと松山藩主を務めた、子の水谷勝宗(みずのや かつむね)と孫の水谷勝美(みずのや かつよし)も祀っていました。
住吉神社は、もとは羽黒神社の西およそ500メートルほどのところにある住吉山という丘に鎮座していました。
それを、羽黒神社の境内に移したものです。
右の和霊神社は、愛媛県宇和島市の山家清兵衛を祀る和霊神社を勧請したものと思われます。
熊田神社
熊田神社(くまた じんじゃ)は、本殿の向かって右側にならんでいる境内社のなかのひとつです。
熊田神社は、熊田恰(くまた あたか)を祀っています。
熊田は幕末におこった玉島事変で、西爽亭(旧柚木家住宅)で自害しました。
熊田は玉島の町が戦いに巻き込まれるのを防いだ、町の英雄のような存在です。
そのため玉島の住民は熊田神社を建てて、熊田に感謝をしたのです。
熊田恰や玉島事変については、西爽亭の記事を見てください。
むすびの松
「むすびの松」は、本殿の向かってすぐ右側にあります。
なんと、中央で左右の枝が紐のように結ばれているのです。
そのため、縁結びの御利益があるといわれています。
羽黒神社で結婚式を挙げた場合、手づくりのハート型絵馬が渡され、奉納します。
絵馬殿
南参道の石段を上ってすぐ左手にあるのが「絵馬殿」。
絵馬殿内の上部には、大きな絵馬が飾られています。
大きな絵馬のなかには、かつて商人たちが奉納した船絵馬(ふなえま)もあるのです。
船絵馬は、日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間 ~北前船寄港地・船主集落~」の構成文化財になっています。
玉垣
羽黒神社では「玉垣(たまがき)」も見どころのひとつです。
玉垣とは、神社の境内や社殿のまわりを囲った垣・囲いのこと。
玉垣には、神社に寄進をした者の名前と地域が記されています。
羽黒神社の玉垣には地元・玉島はもちろん、周辺地域から多数の人の名前が記されていました。
実はそのなかに混じり、遠い地方の人の名前もあるのです。
たとえば、箱館(現 函館市)・秋田(現 秋田市)・阿州(現 徳島県)・大坂(現 大阪市)など。
玉島を訪れた遠くの地方の商人たちも、羽黒神社に寄進をしたのです。
つまり北前船をはじめ、玉島の港にさまざまな地域の商人たちが船で訪れて商売をしていたということで、玉島が商業都市として栄えた証拠といえます。
そのため羽黒神社の玉垣は、日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間 ~北前船寄港地・船主集落~」の構成文化財となりました。
一般的にはあまり玉垣を注意して見ないかもしれませんが、羽黒神社では玉垣もじっくり見てみましょう。
羽黒神社は御朱印・御朱印帳も注目ポイント
羽黒神社では、御朱印にも注目です。
羽黒神社の御朱印は、とても芸術的でこだわりがあるのです。
たとえば、以下のようなポイントがあります。
- 通常御朱印が2種と月替わりの御朱印が1種ある
- 御朱印に押される版画は、神社のかたの手づくり
- 月替わり御朱印のデザインや絵柄が、毎月変わる
- 月替わり御朱印のモチーフは、羽黒神社の社殿の装飾など
- 月替わり御朱印のデザインや絵柄には、季節感を取り入れたものと、漢字一文字が入る
取材時は、通常御朱印2種類を両方いただきました。
また月替わりの御朱印もいただきました。
取材時にいただいた御朱印のモチーフは、拝殿屋根の唐破風(からはふ)の経の巻瓦(きょうのまきがわら)でした。
また取材時は4月でしたので、ツバメが描かれて「颯(はやて、サツ、ソウ)」の一文字が記されていました。
月替わり御朱印の内容は、前月の末日までに羽黒神社 公式Instagramで紹介されますので、チェックしてみましょう。
過去の御朱印紹介
参考に、過去の御朱印を紹介します。
過去には、4か月連続で御朱印をいただくことで完成する、8ページを使った「連作」の御朱印もありました。
本殿の扉をイメージしており、本殿正面に2対で飾られている「迦陵頻伽(かりょうびんが)」がいます。
開いた中の御朱印は、御神体の鏡をイメージしたもの。
本殿のバクなどの装飾もあります。
動画で見るとわかりやすいので、以下を参考にしてください。
また以前、黒和紙の御朱印帳を授与していました。
その黒和紙御朱印帳向けに、数ヶ月かけて完成する宝剣(寶劍)をモチーフにした連作御朱印は、まさに大作。
黒和紙の連作御朱印も動画がわかりやすいので、以下を見てください。
太刀のまわりの絵柄は、拝殿の格天井に描かれている植物をモチーフにした紋様です。
御朱印のいただき方
御朱印は、社務所でいただけます。
通常の御朱印は2種類とも各300円、月替わり御朱印は700円の初穂料を納めてください。
なお御朱印の授与希望者が多いため、参拝日中にいただくことが難しいです。
そのため御朱印帳を社務所に預け、後日受け取る方式になっています。
ただし当日中にできる日もありますので、社務所でたずねてください。
受け取り方は、2通りです。
- 自分で羽黒神社に取りに行く
- 郵送してもらう
郵送を希望の場合は御朱印の初穂料に加えて、郵送料 180円が必要です。
御朱印の仕上がりの確認は、2通りの方法があります。
- 羽黒神社 公式サイトのトップページで確認
- 羽黒神社 公式ブログで確認
- 羽黒神社よりInstagramのダイレクトメッセージで仕上がりの連絡を受ける
都合がよい方法で確認してください。
なお、毎週金曜日は御朱印の授与は休みです。
御朱印が欲しい場合は、社務所に御朱印帳を預けましょう。
また金曜日に預けておいた御朱印を受け取る場合、日付の書き入れはありません。
羽黒神社 オリジナル御朱印帳も
羽黒神社では、オリジナルの御朱印帳もあります。
取材した令和3年(2021年)4月、ちょうど新しい御朱印帳が登場していました。
オリジナル御朱印帳は、抹茶色と深藍色の2色です。
抹茶色は玉島が古くから茶道が盛んな地域であること、深藍色は北前船から見る夜の海をイメージしているそう。
抹茶色は、表面は木綿ツイル生地、裏面はデニム生地。
深藍色は、表・裏面ともデニム生地です。
オリジナル御朱印帳は、最初のページへ見開き限定御朱印がいただけます。
なおオリジナル御朱印帳は、在庫がなくなりしだい終了です。
羽黒神社のオリジナル御朱印帳をいただくには、社務所で1冊3,500円の初穂料を納めてください。
羽黒神社の行事
羽黒神社では、たくさんの年間行事があります。
そのなかでも注目なのは、以下の行事です。
なお羽黒神社の例大祭の神輿は、3基の神輿のなかで一番大きいです。
羽黒神社の行事の詳細については、羽黒神社 公式サイトを参照してください。
行事は、新型コロナウイルス感染症の流行の影響により、中止や内容変更の可能性があります
羽黒神社の歴史
羽黒神社には、どんな歴史があるのでしょうか。
紐解いていきましょう。
干拓によって玉島の土地が誕生
玉島中心部がある一帯は、もともと海でした。
現在も玉島の地名として残る柏島(かしわじま)・乙島(おとしま)・七島(ななしま)なども島だったのです。
そして、羽黒神社がある羽黒山は「阿弥陀山(あみだやま)」とも呼ばれ、柏島と乙島のあいだに浮かぶ小さな島でした。
寛永19年(1642年)に水谷勝隆が備中松山藩主になると、柏島・乙島・七島などの一帯を治めていた松山藩が海を干拓し始めます。
もともと前藩主の池田長常(いけだ ながつね)も、長尾(現 倉敷市玉島長尾)あたりを干拓していましたが、さらに大きな干拓をしました。
水谷勝隆は寛永19年(1642年)から干拓を始め、少しずつ沖へと土地を広げています。
明暦元年(1655年)より、もっとも規模の大きな干拓工事を始めました。
そこで水谷勝隆は、干拓工事が無事成功することと、干拓後の土地の発展を願い、万治元年(1658年)に阿弥陀山に羽黒神社を祀ったのです。
干拓工事は万治2年(1659年)に完成し、新たに生まれた土地は玉島新田(現 倉敷市玉島)と呼ばれました。
さらに羽黒山の周辺の港(玉島湊)は商港としてにぎわい、周囲の港町も発展したのです。
玉島の発展とともに羽黒神社も発展
玉島湊は北前船が入港していました。
北前船とは、北海道と大坂(現 大阪市)を日本海〜関門海峡〜瀬戸内海のルートで結んだ船です。
玉島周辺では綿栽培が盛んでした。
いっぽう日本海側ではニシン漁が盛んです。
玉島では、綿栽培の肥料としてニシン粕が必要でした。
そのため北前船で運ばれたニシン粕や玉島で栽培された綿の取引が活発におこなわれ、玉島は瀬戸内有数の商業都市に成長したのです。
最盛期には玉島の港町には、40を超える廻船問屋(かいせんどんや:海運事業者)がありました。
玉島が商業都市として発展するとともに、裕福な商人が増えます。
成功した地元の商人や北前船で玉島に訪れた商人たちが、羽黒神社に寄付をするなどし、羽黒神社は大きくなっていきました。
こうして羽黒神社は、玉島の鎮守として現在まで親しまれるようになったのです。
宮司・福田真人(ふくだ まこと)さんにインタビューをしました。
羽黒神社の宮司・福田 真人さんへインタビュー
羽黒神社の宮司・福田真人(ふくだ まこと)さんに、神社の歴史や御朱印のことなどについて話を聞きました。
羽黒神社は山形県羽黒山から
──阿弥陀山に祀られたのは、なぜ羽黒神社だったのか?
福田(継承略)──
羽黒神社を祀ることを決めた、松山藩主の水谷勝隆に関係があります。
勝隆は松山藩主になる前は、近くの成羽藩主でしたが、その前は常陸国(現 茨城県)の下館(しもだて:現 筑西市)藩主でした。
水谷家のルーツは東北地方にあるという説があり、水谷家は代々、出羽国(でわのくに:現 山形県・秋田県など)の羽黒山(はぐろさん:山形県鶴岡市)の出羽神社(いでは じんじゃ)を氏神として信仰していたのです。
下館には、勝隆の祖先が建てた羽黒神社があります。
そこで勝隆は、玉島・阿弥陀山にも羽黒山より分霊を祀ることにしました。
つまり羽黒神社の「羽黒」とは、山形県鶴岡市の羽黒山に由来しているのです。
羽黒神社は地名「玉島」の発祥地!?
──東参道の社号標にあった「玉島発祥の地」というのは?
福田──
実は、羽黒神社は玉島の地名発祥地だという説があるのです。
羽黒神社が鎮座する羽黒山はかつて阿弥陀山という山で、小さな島でした。
この阿弥陀山のあった島を「玉島」と呼んでいたともいわれています。
干拓により新たな土地が生まれたとき、土地の象徴的な玉島にちなんで「玉島新田」と名付けられたともいわれているのです。
そのため羽黒山は、玉島の地名の由来だといわれています。
ちなみに現在の羽黒神社の住所は玉島中央町一丁目12-1ですが、地番変更がおこなわれるまでは「玉島1番地」でした。
それは、羽黒山が玉島の地名由来だという説にちなんでいるからです。
御朱印について
──こだわりのある御朱印が評判だが、始めたキッカケは?
福田──
御朱印を担当しているのは、おもに妻です。
実は、妻は学生時代に美術を専攻しており、絵付けを趣味にしていました。
その技術やセンスを御朱印に応用しているんです。
キッカケは天皇陛下の即位・令和改元のとき。
いろいろな神社やお寺が、即位を記念して特別な御朱印を授けたりしていました。
そこで妻が、羽黒神社でも記念に特別な御朱印をつくったんです。
それが参拝されたかたに大変好評でした。
そのため、その後もオリジナルの御朱印を授与することにしたんです。
妻は「せっかくなので、当社の見どころを御朱印で知ってもらいたい」という思いから、毎月絵柄を変えて当社の見どころをモチーフにすることにしたそうです。
また月替わりなので、それぞれの月に関連したものや漢字を入れたりの工夫もしていますよ。
今後の展望
──参拝するかたがたにメッセージがあれば、教えてほしい。
福田──
神社が一番願うのは、みなさまの心と体の健康です。
令和2年からは、世界が新型コロナウイルス感染症の影響で大変な時期が続いています。
神社へ参拝する状況も大変なほどです。
ですから、新型コロナウイルス感染症の早期の終息が私の一番の願いですね。
そして、みなさまが幸せを取り戻し、元気に当社へ参っていただけるようになってほしいです。
玉島の町とともに発展した羽黒神社
玉島の町とともに生まれ、玉島の町とともに発展した羽黒神社。
羽黒神社には、かつての商業都市・玉島の歴史がわかるものがたくさんあります。
またこだわりの御朱印も魅力的で、いただくのが楽しみです。
御朱印に描かれた羽黒神社の見どころを参考に、境内の歴史探しをしてみても楽しいのではないでしょうか。