音楽が聴こえてきた街:RUN DMCの登場と原宿独自のヒップホップ・カルチャー 1986年 5月15日 RUN DMCのサードアルバム「レイジング・ヘル」がリリースされた日

エアロスミスとのコラボ「ウォーク・ディス・ウェイ」が大ヒット!

80年代の半ばから終わりにかけてのエポックメイキングな出来事といえば、RUN DMCの登場だ。それまで、ヒップホップ・カルチャーといえば極めてニッチな存在だった。この言葉の生みの親とされるアフリカ・バンバータなどは、度々、雑誌『宝島』に取り上げられていたが、海の向こうの最先端の音楽という感覚はあった。そして、ここに夢中になっていたのは流行に敏感な、ごく僅かな人だったと思う。

しかし、86年5月RUN DMCが『レイジング・ヘル』をリリースし、エアロスミスとコラボレイトした「ウォーク・ディス・ウェイ」が大ヒットすると、瞬く間にそのスタイル、音楽性は東京の街に浸透していった。歪んだギターの音と、飛び道具といっても過言ではないターンテーブルのスクラッチは、これまでのロックの初期衝動を全て覆すぐらいの破壊力があり、その存在感を十二分に体現していた。それは、今まで聴いたことのない、紛れもなく最先端の音楽だった。

ロックに寄り添うヒップホップ、ビースティ・ボーイズ、LL・クール・J…

また、同時期にシーンの最前線にいたLL・クール・Jもチャック・ベリーをサンプリングするなど、この時期のヒップホップはロックにグッと寄り添っていた。飛び道具的なスクラッチ音とギター主体のサウンドは、他ジャンルからも抵抗なくシフトできる間口の広さを感じることができたのだろう。

そして『レイジング・ヘル』から約半年、ブラックミュージックという視点からは少し外れたヒップホップ・カルチャーが東京で確立される。白人でありながら、多くのヒップホップミュージシャンと交流を持ち、レッド・ツェッペリンやCCRをサンプリングしていたビースティ・ボーイズの登場だ。

彼らがドロップしたファーストアルバム『ライセンス・トゥ・イル』に収録され、初期の彼らの代名詞ともなっていた「ファイト・フォー・ユア・ライト」は、ロックなクラブイベント「ロンドン・ナイト」でもキラーチューンとなり、パンクスたちで一杯のフロアを熱狂の渦に巻き込んでいった。

まさにコペルニクス的転回 “実家の部屋着=ジャージ” が最先端に!

音楽も然ることながら、衝撃的だったのが彼らのファッションだった。それまで “部活の代名詞” “実家の部屋着” といったダサさの象徴だったジャージを最先端のモードに昇華させた。これはまさにコペルニクス的転回といっても過言ではないだろう。

特にRUN DMCのスタイルはキャッチーだった。アディダス・スーパースターの靴紐を外して履き、カンゴールのハットに同じくアディダスの三本ラインのジャージ姿にゴールドのアクセサリー。そんなスタイルで「My Adidas!」とラップする姿に多くの若者が飛びついた。その多くはブラックミュージックファンではなく、それまでパンクやロカビリーを最新の音楽と捉え、新宿のディスコ、ツバキハウスや日本初のクラブとされる原宿のピテカントロプス・エレクトスを根城としていた不良少年たちだった。

最先端モードはニューウェイブからヒップホップに!

80年代半ば頃まで、ロンドン発原宿経由という独自のカルチャーがあった。80年代初頭、ロンドンで最先端のロック・ヴェニューがひしめき合うカムデン地区から発信されるロカビリー、ガレージ、70’sパンクを具現化。ズートスーツや革ジャン、派手な原色の切り替えシャツなどのスタイルを取り入れ、街に浸透させていったショップがいくつかあった。

たとえば、原宿ラフォーレ近くの交差点にあった雑居ビルの地下、小さな店がひしめき合い雑然としたマーケットを思わせる原宿プラザに店を構えていた東倫、今でいうセレクトショップの走りで、ここでしか会えないロンドン直輸入の一点モノが溢れていたロンドン・ドリーミング、そして、今もモードの最先端として当時と同じ場所に君臨しているアストアロボット… これらショップの常連の多くは、パンクやロカビリーに夢中になっていたが、80年代中盤になると、彼らの多くがヒップホップを最先端のモードと捉え傾倒していった。

極めつけは、東京ニューウェイブシーンを席捲したプラスチックスの中西俊夫、佐藤チカを中心にキャリアをスタートし、それまでファンクとニューウェイブを融合したMELONがヒップホップへ転向したことだ。彼らが87年にドロップした12インチシングル「HARDCORE HAWAIIAN」は、ハードコアというタイトルを体現したスクラッチとオリエンタルっぽさも垣間見れるラップで、まさしく当時の原宿の音だと断言できるだろう。

ジャンルの壁を取っ払った、原宿独自のヒップホップ・カルチャー

そして、このレコードのジャケットも最高にイカしていた。ヒップホップスタイルでお馴染みのカンゴールのハット、スカジャンの刺繍が施されたN-2Bスタイルのジャケット、そして革パン… ロンドン発原宿経由のスタイルがヒップホップへとたどりついた瞬間だった。

この強烈な印象もまた、パンクからヒップホップへの大きな間口だったと言えるだろう。ちなみにこのスタイルをいち早く店頭に並ばせたのが、中西俊夫らともゆかりが深く、当時原宿と渋谷を繋ぐ明治通り沿いの地下にあった古着屋、DEPTだった。

ユースカルチャーは、ファッションと音楽の連動が不可欠だ。そこで作られていく新たなスタイルが、時代、時代の街の象徴となっていく。RUN DMCから始まり、ビースティ・ボーイズ、そしてMELONへとたどり着く原宿独自のヒップホップ・カルチャーは、聴き手のジャンルの壁というヤツを大きく取っ払った。そしてこの原宿を起点としたリスナーたちの意識は、90年代のロックのミクスチャー志向へと台頭してゆくのだ。

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※2019年9月11日、2021年5月15日に掲載された記事をアップデート

カタリベ: 本田隆

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