ギャラリー(?)の視線を浴びベンチプレスをする一人の外国人選手…。そう、〝殺人医師〟の異名を持つスティーブ・ウィリアムスだ。
これは今から34年前の昭和62年(1987年)2月25日、新日本プロレスの宮城・名取市総合体育館での試合前のひとコマ。ウィリアムスはリック・スタイナーと2人1組となり、体育館の通路でウエイトトレーニングを行っていた。その様子を眺めていた日本人選手は一人二人と増え、いつの間にか通路を塞ぐくらいに増えた。
中には笑顔で、そして真剣な表情で見入っているのは、右から飯塚孝之(後の高史)、ジョージ高野、坂口征二、ドン荒川、武藤敬司、後藤達俊、UWFの安生洋二、田中秀和リングアナ、佐野直喜(後の巧真)、松田納(後のエル・サムライ)、畑浩和、片山明。
ウィリアムスは見られているのもお構いなしに黙々と、リックと交互に140キロのバーベルを様々な方法で挙げていた。それにしても、この2人は見るからに頑丈そうな肉体を誇っていた。
この日は、2人がタッグを組みルーク・ウィリアムス&ブッチ・ミラーのシープ・ハーダーズと対戦し、ウィリアムスがミラーをフォールして勝利した。
さて、ウィリアムスといえば前年の86年、2度目の来日を果たした10月にある事件(事故)を起こしていた。
それは、10月13日に行われた後楽園ホール大会でアントニオ猪木とシングルで対戦した時のこと。開始わずか20秒、猪木をロープに飛ばし、正面からベアハッグで受け止めたウィリアムスは、スパインバスターでマットに叩きつけた。カバーに行くと、頭を強打した猪木はダウンしたまま。ウィリアムスは自らカウント2で猪木の肩を上げアームロックに移行した。
これにはファンもあ然、騒然。テレビは生中継だったので、オールドファンの中には目撃した方もいたのではないだろうか? メインで行われたこの試合はわずか6分46秒、両者リングアウトの引き分けで終わり、さらなるブーイングを浴びたのは言うまでもない。
猪木とは85年12月25日、米テキサス州ダラスで初対戦。87年10月25日には、両国国技館でIWGPヘビー級王座にも挑戦しているウィリアムスだが、これといって記憶に残る試合は残せていない。
ウィリアムスに転機が訪れたのは90年だった。
新日本が2月10日に東京ドームで興行を行った際、全日本プロレスに協力を依頼。これを受けジャイアント馬場はジャンボ鶴田、天龍源一郎 タイガーマスク(三沢光晴)、谷津嘉章、スタン・ハンセンを派遣。その見返りに新日本はウィリアムスを全日本に貸し出した。
後にスタン・ハンセンがクラッシャー・バンバン・ビガロとトレードで新日本に短期間参戦し、長州力とタッグを結成(6月14日、大分県立荷揚町体育館)したりと、両団体は良好な協力関係を築き、ファンにも好評を得る。そして、その後ウィリアムスは全日本に完全移籍した。
本紙に好評連載されていた和田京平名誉レフェリーの「王道を彩った戦士たち」では、技に強引なところがあったウィリアムスを、馬場がリング上で直接教えたことが明かされた。それによりウィリアムスは全日本になじみ、活躍する。
テリー・ゴディとの〝殺人魚雷コンビ〟で暴れ回り世界タッグを奪取。あの〝殺人〟バックドロップを武器に三沢ら四天王の壁となり、94年7月28日の日本武道館で、ついに三沢を破り3冠ヘビー級王座も奪取した。
00年6月、三沢が新団体ノアを設立し、全日本から選手が大量離脱しても全日本に継続参戦したウィリアムス。これは馬場の指導を受けたということもあるのだろうが、馬場=元子さんに義理立てしたようだ。
ウィリアムスはその風貌とは相反して(失礼)義理堅い男だった。咽頭がんが再発して、49歳という若さで死去したウィリアムス。その雄姿はいつまでもファンの脳裏に焼き付いていることだろう(敬称略)。