本土に先駆け女性参政権行使 米軍統治下より軽い民意 沖縄復帰半世紀

By 江刺昭子

本土復帰を果たし、佐藤栄作首相と握手を交わす屋良朝苗・沖縄県知事=1972年5月17日、首相官邸

 今年は女性が初めて参政権を行使した1946年から75年になる。敗戦まもない45年11月、女性の政治活動を禁じていた治安警察法が廃止され、12月には衆議院議員選挙法が改正公布され、女性参政権が実現した。そして翌年4月10日の第22回衆議院議員総選挙で、全国で83人の女性が立候補し39人が国会の議席を占めた。

 しかし、本土より7カ月早く、沖縄の女性が参政権を行使していたことは、あまり知られていない。これに深く関わったのが、戦前、日本の革命によって沖縄を解放するという夢を抱いた社会運動家、仲宗根源和(なかそね・げんわ)である。(女性史研究者=江刺昭子)

 太平洋戦争末期の沖縄戦は、日米双方で20万人、県民の3人に1人が亡くなる壮絶な地上戦だった。生き残った人びとは、米軍の上陸とともに本島各地の収容所に追いやられ、生きるためのぎりぎりの日々をしのいでいた。

米軍の激しい攻撃を受けた首里の日本軍兵舎=1945年5月(米軍撮影・沖縄県公文書館所蔵)

 8月15日、日本がポツダム宣言を受諾すると、沖縄の米軍は、県会議員らかつての指導者たちを集めて、米軍の諮問機関として「沖縄諮詢(しじゅん)会」を設置。諮詢会委員には15人(全員男性)が選ばれた。諮詢会は戦後沖縄の立法、行政機構の出発点と位置づけられている。

 仲宗根源和は革命の夢を捨て、妻の貞代とも別れた後、沖縄に帰り、42年には県会議員になっていたので、諮詢会委員の1人となり、社会事業部長を務めた。

 諮詢会は各地の収容所を12の「市」として、市長と市会議員選挙を行うことになり、「地方行政緊急措置要綱」を定めた。その9条は「その市における年齢25歳以上の住民は選挙権および被選挙権を有す」とし、女性参政権を認めている。

 諮詢会の会議では委員たちが当初、女性参政権は時期尚早として反対したが、採決結果は賛成11、反対1だった。米軍政府政治部長、マードック中佐の強い意向があったとされている。

 これに対し源和は、著書『沖縄から琉球へ』で、「アメリカは参考としていろいろ意見をいうが大体われわれの意見を尊重した」と沖縄の意志を強調している。実際、同書によれば、マードックが「顔を真っ赤にして」、源和は「テーブルをたたいて」激論を交わし、後腐れもなかったらしい。

1945年5月から翌年1月までに撮影された捕虜収容所(沖縄県平和祈念資料館提供)

 9月20日、市会議員選挙が行われた。「女子も元気よく投票していた」「女子の棄権が多いと思ったが予想外の好成績であった」と「沖縄諮詢会記録」にある。

 中城(なかぐすく)村出身の中村信は、女性にも選挙権が与えられたから投票するように、と聞いたときは耳を疑ったほどで「感激いっぱいで投票した」(沖縄タイムス社編『私の戦後史 第7集』)と回想している。

 被選挙権も認められ、漢那(かんな)市から2人の女性が立候補したが、落選した。

 那覇市総務部女性室編『なは・女のあしあと 那覇女性史(戦後編)』は、「戦後の暗いスタートのなかで、沖縄の女性たちに与えられたもっとも大きな栄光」、「戦禍で心身ともに傷ついたうえ、毎日のように起こる米兵のレイプ事件に怯(おび)えるという時勢のなかで、この選挙権の行使は多くの女性たちに希望を与えた」と記している。

 収容所から人びとが出身地にもどると、沖縄諮詢会の役目は終わった。47年、源和は沖縄民主同盟を結成して委員長になり「沖縄独立論」を主張、しだいに反共的な主張を強めていった。

 一方、戦前に源和と別れて緒方姓に戻った貞代と病身の弟は、戦後20年たった頃、出身地である熊本県に家を建てた。東京で勤めていた妹も戻り、3人の生活がしばらく続いたが、弟と妹に先立たれ、貞代は1978年、財産のおおかたを地元の赤十字や短大に寄付して老人ホームに入った。その年10月、源和が83歳で死去。

50年ぶりの再会。左が緒方貞代、右が堺真柄=1979年、熊本の老人ホームで、

 それを知った貞代は、それまでは世間をはばかるように生きてきたのに、短大に寄付をしたときに新聞の取材に応じるとともに、79年には革命を目指した頃の同志、堺真柄(社会主義者の堺利彦の娘)と50年ぶりの再会を果たした。

 また、わたしの取材にも応じ、生い立ちから現在の心境までを語ってくれた。

 貞代は源和に学者になってもらいたかったと明かした。お手本もあった。後に「沖縄学」を打ち立てる伊波普猷(いは・ふゆう)や比嘉春潮(ひが・しゅんちょう)である。彼らは東京にいたころ、近所に住んでいた時期もあった。

 彼らの糟糠(そうこう)の妻たちが貧乏に耐えて夫に尽くしたように、わたしも「あの人を男にしたかった」。だが、源和が待合の女将(おかみ)と親しくなったことで別れることになった。

 「あの人が変なことをしないで、一人前の人間として死んでくれることだけを祈っていましたから、これでほっと安心しました」。まるでヤンチャな息子を案じる母のような口ぶりで、源和への執心を隠さなかった。それから2年後の81年12月、86歳の生涯を閉じた。

沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場。市街地の真ん中を占有する=4月(共同通信社機から)

 2人が沖縄の解放をめざし上京して100年余。沖縄は苛烈な戦争を経て、米軍の支配下に置かれ、復帰後の今も日米関係の矛盾を引き受けさせられている。全国の米軍基地の7割が集中し、米軍関係者による性暴力被害もなくならない。

 そしてコロナ禍の今も、辺野古では県民の反対をおして基地建設が進む。戦後の米軍統治下よりも、沖縄の民意は軽いのではないか。経済格差は縮小したかもしれないが、復帰のとき人びとが望んだような平和で民主的な生活はまだ得られていない。

沖縄国際大(下)付近を飛行する米軍ヘリ=3月、沖縄県宜野湾市

(注)旧仮名遣いの引用文や引用条文は現代仮名遣いに改めた。

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