「今日から芸人や」第二の誕生日に 節目に鶴瓶師匠の言葉 笑福亭銀瓶さん半生つづる

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「師匠に少しでも近づきたい。でも『銀瓶、来よったな』と思ってもらえるようになるのはまだまだかな」と話す笑福亭銀瓶さん=神戸市中央区、神戸新聞社(撮影・坂井萌香)

 落語家、笑福亭銀瓶(ぎんぺい)さん(53)=兵庫県尼崎市在住=が自身の半生をつづった「師弟 笑福亭鶴瓶からもらった言葉」を出版した。六甲山を仰ぎ見ながら元気に駆け回った少年の頃、出自と向き合った中学・高校時代、芸の道に入るも迷いがあった青年期。それらの節目節目で進む道を示してくれた人、言葉との出合いがあった。一番大きな存在が、もちろん、師匠である鶴瓶さん。「半生を振り返り、師匠からもらった言葉とまた向き合うことになった」という。(片岡達美)

 昨年4月、旧知の編集者の依頼を受け、約4カ月で書き上げた。落語家らしく「音に出して読んでみて、違和感のないようにした」から、読んでいて小気味いいリズムとテンポ。さらに「情景が読み手にも浮かぶような文章になるように意識した」ので、それぞれが映画の一場面のように見えてくる。

 1967年、在日コリアン2世の両親のもと、神戸市灘区で生まれた。教師になりたくて地元の進学高校を目指したが、父親の強い勧めで国立明石工業高等専門学校へ。本来の志望ではないため将来の展望が描けない中、思いついたのが当時から、タレントとしてテレビに引っ張りだこだった鶴瓶さんの弟子になることだった。

 在学中に鶴瓶さんが出演していた大阪のラジオ局前で待ち伏せし、弟子入り志願。そのときは断られたが、親切に接してくれたことにますます心を動かされ、再度訪ねて高専卒業後に弟子入りがかなった。

 通い弟子となった初日、「今日からお前は在日韓国人でも、韓国人でも、日本人でもない。芸人や」と言われた。それが1988年3月28日。銀瓶さんにとっては「誕生日の次くらいに大切な日になった」

 師匠に導かれ、単なるタレント志望ではなく、より真剣に落語に取り組むことに。その奥深さを再認識させてくれたのが韓国語落語だった。師匠の「お前、韓国語できるんか?」という何げない一言で、「それは自分にとって逃げられないことの一つだと確信して」、独学で言葉を習得。韓国で公演を開くまでになった。ただ、「韓国語落語はあくまで変化球。直球は日本語での落語。直球がちゃんと投げられてこその変化球だと、打ち込んでみて気付いた」と振り返る。

 読売演劇大賞をはじめ数々の賞を受けた舞台「焼肉ドラゴン」に出演したこともまた転機となった。「すいませんでした」というセリフの一言に、姫路市出身の作・演出の鄭義信さんからなかなかOKが出ない。「演劇では自分の限界を超えた表現が求められる。ここでの経験は落語にも生かせたと思う」という。

 「これも避けて通れないことだった」と言うのが、師匠の奥さんとの関係だ。「若気の至りと言えばそれまでですが、ぼくの失礼な言動で」、不仲が続いた。そんな様子を見た鶴瓶さんから「お前、うちのやつとなんであかんねん」と、これもふと尋ねられた。「あまりにさらっとなので余計に響いて」。弟子入りから10年余りたっていたが意を決し、腹を割って奥さんと話し合い、わだかまりを解いた。「師弟関係は親子と一緒。師匠の奥さんは母親みたいなもの」。そんな心境になれた。「このことを書いてもいいか聞くと『何を書いてもかまへんよ』と快諾してくれた」。今は「落語できちんとご飯を食べていけてる姿を見せることが何よりの“親孝行”」という。

 出会いは数々。神戸・風月堂ホールで「恋雅亭(れんがてい)寄席」をプロデュースしていた楠本喬章(たかあき)さん、自宅を訪れ、教えを請うた桂米朝さん、折に触れ声を掛けてくれた六代目笑福亭松喬(しょきょう)さんら、亡くなった重鎮の言葉は、他のどこにもない貴重な記録。「うけても自分の手柄やない。ネタに感謝せい」と諭してくれた桂ざこばさん、惜しみなくネタの稽古をつけてくれた桂米二さんら、先輩との交流の記録と合わせ、そのまま上方落語界のクロニクルになっている。

 「師匠は相撲で言えば横綱、野球なら不動の4番バッター。越えられないでかい山がいつもそばにあることに感謝している」と銀瓶さん。「でもいつかは金星を取りたいし、三振を取りたい」

 「師弟~」は西日本出版社刊、1980円。