【加藤伸一連載コラム】対外試合禁止8か月に少しホッと…

高校には片道1時間をかけて自転車通学した

【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(9)】翌春の選抜大会につながる中国大会への出場を目前にしていた1981年秋、倉吉北高校に再び激震が走りました。夏の県大会を前に新聞報道で明るみに出た上級生による下級生に対する“暴行疑惑”は出場辞退という形で収束したかに思われていましたが、地元の倉吉警察署に野球部員7人が暴行、傷害の容疑で書類送検されたことで事態は最悪な方向へと動きだしました。

学校側は暴行の事実は「ない」としていましたが、日本高野連は暴行の事実が「あった」とし、日本学生野球憲章に抵触する恐れがある事件と判断したのです。鳥取県高野連を通じて「対外試合禁止」が通達されたのは10月23日のこと。翌春の甲子園どころか、11月1日開幕の中国大会への道も閉ざされてしまいました。

当時の倉吉北野球部は親元を離れて大阪や兵庫などの関西圏から“野球留学”してきた生徒ばかり。レギュラークラスとの力の差という現実を突きつけられ、夢も希望も見失った上級生にとって、1年生はストレス発散のはけ口でしかありません。「ケツバット」と聞いて、皆さんがどの程度の痛さを想像されるか分かりませんが、暴行を受けて退学した生徒の中には障害を抱えることになったケースまでありました。

日本学生野球協会の審査室会議で倉吉北への正式な処分が決定したのは10月30日のこと。「10月22日から8か月の対外試合禁止」。厳しい処分ではありましたが、少しだけホッとしたのも事実です。処分の期限は翌年の6月30日。解除時に再審査があるとはいえ、粛々と練習に励んでいれば7月1日から練習試合を再開し、夏の県大会を目指せる――。学生に目標を持たせるという教育的配慮があったようです。

そうなったら腐ってはいられません。通学にはママチャリで片道1時間ほどかかりましたが、雨の日でも雪の日でも、かっぱを着てペダルを踏み続けました。支えとなったのは仲間の存在です。倉吉西中時代からバッテリーを組んでいた捕手の森正広くんをはじめ、苦楽をともにした同郷のチームメートとは今でもゴルフをしたり食事をしたり、仲良くさせてもらっています。

一方で、8か月に及ぶ「対外試合禁止」という厳しい処分は、倉吉北に暗い影を落としていたのも事実です。百数十人いた野球部員は82年6月30日をもって処分が解除されたころには79人にまで減り、1年生部員は8人だけ。それでも徳山一美監督の後を受けてコーチから昇格した当時25歳の広瀬康彦新監督のもと、僕らは新たな目標に向かって進んでいきました。

☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。

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