クリミア侵攻から始まった「ハイブリッド戦争」
ハイブリッド戦争、という言葉が様々なニュースを通じて知られるようになってきた。
有事と平時の区別なく、軍事と非軍事の区別もない、あらゆる手段で相手国にゆさぶりをかけ、自国に有利な状況を作り出すというものだ。ここに「宇宙・サイバー・電子」の領域を使いながら優勢を取ろうとするマルチドメイン戦争、というものまで加わるなど、これまでの「戦争」の概念が大きく変わりつつある。
特にハイブリッド戦争は特に中国やロシアが得意とするもので、中国の手法やシミュレーションに関しては元陸上自衛隊幕僚長・岩田清文『中国、日本侵攻のリアル』(飛鳥新社)に詳しい。
この本にも指摘があるように、後に「ハイブリッド戦争」と名付けられる手法が実践され、世界的に認知されたのは2014年にロシアが行ったクリミア侵攻だった。
ウクライナの通信網に対する物理的遮断に加え、意図的なニセ情報の拡散によって、住民はもちろん、世界の目もごまかした。
一時は民主主義実現のツールとさえ言われたSNSを兵器として使うロシアの手法は、ソ連時代からの諜報能力やプロパガンダ能力、扇動能力を今もロシアが失っていないどころか、ネットの普及によってそうした強みにさらに磨きをかけている実態を示している。
こうしたロシアのハイブリッド戦争に関する能力については、近年、良書の刊行が続いている。
例えばロシアの米選挙戦への介入疑惑によって相手国の情報を「あいまい」にさせる手法や、中国海警局のようにこちらも「あいまい」な存在を使って相手を撹乱させる手法を用いていることを指摘するジム・スキアット『シャドウ・ウォー―中国・ロシアのハイブリッド戦争最前線』(原書房)や、父がKGBに連行された経験を持つ、ウクライナが祖国のピーター・ポメランツェフ『嘘と拡散の世紀』(原書房)などで、いずれも読み応え十分だ。
さらに2020年末から2021年頭にかけては、特にロシアとその手法についてより読みやすく、手軽に知ることのできる新書が相次いで刊行されている。内容も充実の三冊をご紹介したい。
暗殺事件から、フェイクニュース製作工場まで
まずは古川英治『破壊戦―新冷戦時代の秘密工作』(角川新書)。
タイトルに「ロシア」の文字はないが、日経新聞国際部記者でモスクワ特派員経験のある筆者が、当地で取材した臨場感のある情報をルポ形式で綴る。
暗殺事件から、フェイクニュース製作工場までに迫る、まさに「体を張った取材」のたまもの。ぐいぐい読んでしまう。
中でも、ロシアのプロパガンダ機関に等しい国営メディア・ロシアトゥデイ編集長との一問一答には要注目。ロシア側から見た世界のとらえ方、欧米諸国への不信感が読み取れよう。
(欧米の)主要メディアを分析して、皆画一的な報道しかしていないことが分かった。人々はそんなメディアに飽き飽きしているのよ。……なぜ「別の視点」を怖がるのかしら。同じことばかり報道していることに気づかないなんて。狂っているのはどちらかしら。
この女性編集長の言葉には、うっかり頷いてしまいそうになる。
ロシアは〈人間の脳内を支配することを目論んでいる〉
二冊目は廣瀬陽子『ハイブリッド戦争―ロシアの新しい国家戦略』(講談社現代新書)。
慶応大学教授、つまり学者の手になるもので、緻密な分析や他の学者の研究成果の引用も多く、さらに体系立ててロシアの戦略を知りたい人は必読だ。
大注目なのは、ネットにおけるニセ情報の拡散や世論誘導、影響力工作を「個々の人間の認知領域への介入」と位置付けている点。つまり、狙われているのはわれわれの脳であり、ロシアは〈人間の脳内を支配することを目論んでいる〉ということになる。
一冊目の『破壊戦』に掲載されているロシア・トゥデイ編集長の言葉を思い出してほしい。心理の盲点を巧みに突かれ、うっかり「共感」すれば、そこからロシアの思うように「脳内を支配」されかねないというわけだ。
ロシアの狙いは、一定方向に世論を引っ張ることだけではない。ネット上の情報に自由社会の人々が疑心暗鬼になり、ある論点で社会が二分されればいい。それだけで自由社会は不安定化し、異論が排除されるロシア(や中国)としては格段にやりやすくなるのだ。
例えばポリコレ。自由社会は中露との違いを際立たせるためによりリベラルで人権的であろうとするが、当然、反発する人たちも出てくる。そうした分断を外から少し刺激してやるだけで、勝手に内部分裂してくれる。
どちらか一方がそうした自由社会に愛想をつかし、「中露の方がましだ」「中露がうらやましい」と思うようになれば大成功、となる。
狙われているのは私たちの「脳(認識)」そのものだ。脳に直接、揺さぶりをかけるための情報工作が、私たちが日頃見ているネットの中で大量にばらまかれている。その可能性を常に意識すべきだろう。
ハイブリッド戦争には領域の区別もなければ、有事と平時の区別もないのだ。
一市民からのロシア論
ラストは中村逸郎『ロシアを決して信じるな』(新潮新書)。
タイトル通り、時に厳しくロシア社会の問題を指摘するが、時には驚くほどの美文でロシアの景色と人々の心情を綴っている。
「ロシア人とはどういう人たちなのか」を、現地滞在経験から描き出していて、思わず笑ってしまうエピソードもあるが、「核戦争一歩手前だった」という国際政治史に残る驚きのスクープも飛び出す。異色の一冊だ。学者としてロシアを俯瞰しつつも、一市民としてロシアに滞在した筆者ならではのロシア論といえよう。
「朝出かけるときにはあった路線バスの停留所が、夜にはなくなっている」といった、日本では驚くような現象がロシアの日常だ。こうした経験が蓄積すれば、「何も信じられない」「誰も頼れない」といった殺伐とした感覚にもなるというものだろう。
「ハイブリッド戦」そのものからは離れるが、広い意味で「ロシア的な世界の見え方」の一端を掴むことができる。近年、ネットで広まっている「偽プーチン説」に言及している点も見逃せない。
日本政府の近年の北方領土交渉についても苦言が呈されているので、ご興味のある方はぜひ。
……と、ここまで書いたところで、更なるロシア本・小泉悠『現代ロシアの軍事戦略』 (ちくま新書)も発売された。もちろん本書でもハイブリッド戦争を扱っている。
見逃せない1冊に違いなく、近いうちに紹介したいと思う。