育成カープの一望千里スカウト・苑田聡彦

© 株式会社東京スポーツ新聞社

苑田聡彦氏

昭和48年5月17日、郡山、仙台と転戦した巨人広島東北シリーズ。盛岡での最終戦の朝、広島の宿の前にサインが欲しい少年たちが集まっていた。察して内野手苑田聡彦が出て来た。苑田は38年三池工業から入団。からだはちいさかったが「中西太二世」といわれた長距離打者。一軍に抜擢された試合前、先輩にいいつかって「カープうどん」を買いに行き、汁をこぼさないように丁寧に運んでいた姿が浮かんで来た。あれから10年になる…。

「坊や、だれのサインが欲しいの」。ノートを預かり、戻って来て渡す。「ボクはだれのがいいの」。また、ノートを預かる…。若き日の現広島スカウト統括部長苑田聡彦である。

福岡県大牟田歴木町で昭和20年に誕生。父親幸紀は九州電力で一生懸命働く。四男三女の三男。高校を出たら勤めに出ようと三池工業を受験。「落ちちゃったんですよ」。で、定時制へ。原貢監督に野球の練習が沢山出来る普通科に入れて下さいと頼みに行った。お礼に監督さんちの長男、辰徳ちゃん(現巨人監督)と遊んだ。

原貢はこのとき東洋高圧の社員で三塁手兼捕手兼用具係。秋、社会人野球産業別大会に出場する、大牟田、下関、北海道砂川事業所の全東圧が編成される。上京すると、砂川の三原野球部長が神楽坂の料亭でのスキヤキ激励会を設けている。原貢の席におひらきになるまで選手たちが集まっていた。人望高く、三池工業が40年夏、第47回大会で優勝するわけだ。中堅手で3番が弟苑田邦夫。いまでも弟さんの話になると苑田の頬はゆるむ、ゆるむ…。

47年春秋、カープはアメリカキャンプ。50年初優勝。優勝旅行のハワイで現地広島県人会の歓迎を受けて喜びを新たにした。52年、現役を退いてスカウトに。

平成22年、広陵高校、明治大学の右腕野村祐輔に着目。明大の試合が終わると神宮球場正面玄関の柱のかげにいた。明大監督善波達也が引き揚げてくると黙礼。名セリフを吐く。

「これは出席簿です」。入団した野村は初登板から190試合に先発。見事に戦っている。

平成24年、二松学舎大付の投手鈴木誠也を打者として獲る。のちに弟邦夫に告げている。「内野ゴロで一塁に走って行くときにスパイクの底がはっきり見えたんだ」。鈴木誠の家を訪ねると、中小の工場を経営している父親が、一生懸命働いていた。作業服姿に心打たれた。鈴木誠は育成カープの4番打者になり、平成28年から5年連続3割、20本塁打以上を続けている。

令和2年の新人王、10勝3敗、防御率1・91の森下暢仁に着目したのも苑田である。森下は大分商業3年生のときに東京、府中、内海・島岡ボールパークでの明大練習会に参加している。このとき、投手でやって来たのは彼ひとりだった。明治大学へ――。一途な思いが感得されたが、ブルペンを見ているとびっくりするような投球ではなかった。明大で主将。善波達也監督の躾がよかったに違いないが、苑田はいう。

「三死を取ってもマウンドでみんなが守備位置から戻ってくるのを待っているんですよ」。苑田は一望千里スカウトである。 =敬称略=