“女子硬式野球の父”が残した遺言 私財をなげうち、辿り着いた甲子園の夢舞台

全日本女子野球連盟副会長と全国高校女子硬式野球連盟代表理事を務める濱本光治氏【写真:伊藤秀一】

四津浩平氏は1995年に日本で初めて女子硬式野球大会を開く

第25回全国高校女子硬式野球選手権大会の決勝が8月22日、初めて甲子園で行われる。5校でスタートした第1回大会から四半世紀でたどり着いた夢の舞台。その実現には「女子硬式野球の父」と呼ばれた人物の“遺言”があった。全日本女子野球連盟副会長と全国高校女子硬式野球連盟代表理事を務める濱本光治氏がFull-Countのインタビューに応じ、女子野球の歴史と未来について語った。3回連載でお届けする。

女子高校球児が初めて甲子園でプレーする。7月24日の開幕戦から8月1日の準決勝までは兵庫・丹波市で行い、決勝のみ男子の第103回全国高校野球選手権大会の休養日にあたる8月22日に甲子園で実施する。4月28日に発表されると、大きな反響があった。

「男性監督よりも女性監督の方が泣いて喜んだと聞いています。『甲子園の土の上で指揮を執ることを考えたこともなかった』と。多くの方が、見に行きたいと仰ってくださっています。明るくて元気で、男子とはまた違った女子野球の魅力を見ていただければと思っています」と濱本氏は穏やかな笑みを浮かべた。

今は亡き四津浩平氏との約束をまた一つ果たした。四津氏は1995年に日本で初めての女子硬式野球大会「日中対抗女子中学高校親善野球大会」を開き、1998年に全国高校女子硬式野球連盟を設立した人物。私財をなげうって女子野球の発展に尽力し「女子硬式野球の父」と呼ばれている。

濱本氏は2001年に花咲徳栄の女子硬式野球部監督を引き受けると、女子野球の歴史を知るために真っ先に四津氏の自宅を訪ねた。「それが私の人生を変える大きな転機になりました。これがなかったら今の自分はいないと思います」と言い切るほど運命的な出会いになった。

大会の滞在費、運営費は「家2軒分使ったということでした」

「大会の滞在費や運営費について質問すると、口を濁すんです。二人三脚でやっていた審判部長の高橋町子さんに後で聞くと、家2軒分使ったということでした。でも、四津浩平はそんなこと一切言わない。この人のために、できることをするのが自分の使命もしくは天命だと感じました」と濱本氏は振り返る。

四津氏は亡くなる直前の2004年に「苦節十年」と題した文章を残した。当時の参加校は10校全て私立校であったため、公立校や中国・四国地方からも出場校を望むことなどが記されている。「その文章には残していないのですが、彼はその時に『いつかは夏の決勝を甲子園で開けたらいいね』と話していました」と濱本氏は明かす。

その遺志を現実のものにするため、濱本氏はチーム数を増やすことから始めた。北は北海道から南は沖縄まで全国各地に自費で足を運び、女子硬式野球部の創部を呼びかけた。さらに、指揮を執っていた花咲徳栄高のほかに、平成国際大女子硬式野球部とクラブチーム「ハマンジ」を立ち上げ、選手がプレーを続けられる環境を整えていった。地道な活動が実り、一昨年開催された夏の選手権の参加校は31校。加盟校は今年43校まで増えた。

現在、春の選抜大会は埼玉・加須市、夏の選手権は兵庫・丹波市、新人戦のユース大会は愛知県で行われている。だが、濱本氏は四津氏の“遺言”とも言える甲子園での決勝戦を諦めてはいなかった。事態が大きく動いたのは昨年2月13日。日本高校野球連盟と意見交換の場を持ち、お互いの歴史や規約等を確認した。その場で甲子園での開催を求めたわけでなかったが、会合を重ねる中で、1日増える男子の休養日を使ってはどうかという提案を受け、実現にこぎつけた。

あの“遺言”から17年。濱本氏は甲子園で行われる決勝戦後の閉会式に四津氏の遺影を持ち込み、「本部役員が持って、見せてあげたいなと思っています」と女子硬式野球の父に晴れの舞台を見てもらうつもりだ。(石川加奈子 / Kanako Ishikawa)

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