噴煙が「呼び水」一転、大打撃 「定点」は火山と防災学ぶ場へ 島原半島観光の歩み 雲仙・普賢岳大火砕流から30年

噴火した普賢岳を見学する大勢の観光客=1992年10月11日、雲仙・仁田峠展望所

 雲仙・普賢岳が198年ぶりに噴火した1990年当時は、島原半島を訪れる観光客が右肩上がりで伸びていた時期だった。しかし、長期化した噴火災害を境に観光・宿泊業界は低迷期に入る。さらに、旅行形態は団体から個人・少数主体の時代へと変化し、少子化などで修学旅行も減少。多様な観光ニーズへの対応も迫られてきた。噴火災害後の交流人口拡大に向けた歩みを振り返った。
 「雲仙に新たな観光名所ができた」-。普賢岳から噴煙が上がった90年11月、雲仙温泉街では、年間宿泊客数が初めて100万人の大台に乗るか乗らないかで盛り上がっていた。噴煙を一目見ようと見物客が観光地雲仙を相次いで訪問。当時、雲仙旅館ホテル組合長だった七條健さん(84)は「100万人達成の呼び水になると歓迎ムードが漂っていた」と振り返る。
 だが翌91年5月、溶岩ドームが出現し、火砕流が発生するころになると、客足が次第に遠のき始めた。43人の犠牲者が出た6月3日の大火砕流直後から宿泊客のキャンセルが殺到。もはや観光どころではなくなり、雲仙、小浜の両温泉街は避難者の受け入れに追われた。

 長崎県観光統計によると、90年の島原半島の観光客延べ数(日帰り、宿泊)693万人に対し、91年は543万人。わずか1年で150万人、割合にして20%以上減少した。半島経済に与える影響は大きく、七條さんら観光関係者や行政が全力で誘客キャンペーンに取り組んだ結果、92年に612万人まで巻き返したが、低水準は噴火活動終息後の99年まで続いた。

島原半島の観光客動向

 特に経済効果が大きい宿泊客の回復はとりわけ鈍く、今も苦戦が続く。島原半島観光連盟の秀山裕史事務局長(64)は「一度離れた団体旅行を取り戻すのは容易ではない。修学旅行は2~3年先まで計画を立てている学校が多い」と話す。
 関係団体が誘客に取り組むさなかに旅行形態は個人型が中心になり、団体依存からの脱却も同時に迫られるようになった。団体宿泊の柱の一つ、修学旅行も少子化などの影響を受けて90年の33万6千人から減少の一途をたどり、2019年には3万8千人にまで減少した。
 09年、島原半島が日本で初めて世界ジオパークに認定されると、島原半島観光連盟は島原半島ジオパーク協議会や雲仙岳災害記念館と協力し、火山と大自然を生かした観光地づくりに着手。連泊も期待できる体験型・学習型のメニューの充実に力を入れた。
 このうち小中高生向けの体験プログラム「島原半島育旅(いくたび)」は、被災した旧大野木場小訪問など22の体験から複数を選択できる。一昨年は全国16校が利用。昨年は新型コロナウイルスの影響で27校がキャンセルしたが、それでも県内を中心に13校が参加した。今年は全国33校(約半数が県内校)の予約を受け付けている。
 さらに今年は、噴火当初に報道陣の撮影拠点だった「定点」=島原市北上木場町=を防災学習の場として活用することを計画。モニターツアーを6月に実施し、7月から本格スタートする予定だ。秀山事務局長は「噴火災害を知らない世代が増えており、実際の現場で防災・減災を学んでほしい。風化させないためのツアーに仕上げていきたい」と力を込める。


© 株式会社長崎新聞社