部下2人犠牲「語り継ぐ」 機動隊分隊長だった 宮下さん  教訓、次世代に 雲仙・普賢岳大火砕流から30年

1991年6月3日の大火砕流時を振り返る宮下さん=県警本部

 「隊員の誰が犠牲になってもおかしくなかった。自分だったかもしれない」-。長崎県警生活安全企画課長の宮下直樹さん(58)は、1991年6月3日の雲仙・普賢岳大火砕流で直属の部下2人を亡くした。当時、九州管区機動隊佐世保小隊の分隊長。報道陣の撮影拠点「定点」や消防団詰め所の農業研修所があった島原市北上木場地区などで警戒に当たっていた。「最後の最後まで職責を果たした2人のために、語り継ぐ責任がある」と話す。
 宮下さんの隊は島原に派遣されたばかりだった。自分を含む計11人を5班に分け、北上木場地区など5カ所を1時間ごとに順次移動・巡回していく形で警戒に当たった。午後2時、宮下さんの班は同地区から巡回を開始し、3カ所目の国道57号まで下りてきた直後だった。普賢岳方面の空に、きのこ雲のような巨大な煙と稲光が見え、すぐに大粒の泥土が降ってきた。
 「まさか」。同地区に今いるはずの隊員2人に無線で呼び掛けたが応答はない。しばらくして国道で、消防団員とみられる焼けこげた数人を搬送するトラックを見た。大変なことが起きていると認識した。
 すぐに上司の小隊長と車で同地区を目指したが、やがて地面は火山灰で覆われ、タイヤがスリップ。車を止め、徒歩で救出に向かったが一帯は一面焼け野原と化し、燃え盛る炎に行く手を阻まれた。「とても行ける状態じゃない。2次被害になる」。そう判断せざるを得なかった。
 隊員の一人が島原温泉病院に運ばれたとの情報を受けた。病室に入ると、包帯でぐるぐる巻きにされた姿があった。会話ができる状態ではなかった。それでも声をかけると、暴れて何かを訴えてきた。それが最後のやりとりとなった。もう一人の隊員も願いは届かず後日、遺体となって帰ってきた。2人は北上木場研修所付近で被災していた。
 計43人が犠牲になった大火砕流惨事。毎年6月3日前後、2人の墓参りを欠かさない宮下さんは、「みんなに(噴火災害の)知識がなかったことが引き起こした」と言葉少なに振り返る。また、定点で亡くなった報道関係者らにも「自分たちの仕事をしていただけだから」と心を寄せる。
 2019年から2年間、島原署長を拝命。就任直後、亡くなった隊員の母親が月命日に島原市内の慰霊碑で献花していることを知った。電話をかけるとその母親は「島原に来れば会える。今でもここにいるんです」と語った。遺族の癒えぬ悲しみを改めて痛感した。
 「大火砕流の恐ろしさ、知り得た教訓を次の世代に伝えることが残された者の使命。語らなければ犠牲者が浮かばれない」。署長在任中は長崎、熊本両県の警察学校初任科生らに自らの体験を語った。
 惨事から30年。災害の記憶の風化が進んでいる。だからこそ2人の墓前で今年、こう誓った。「見守っていてほしい。これからも、あの日の記憶を後輩たちに伝えていく」

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