【加藤伸一連載コラム】合同自主トレでパンチだらけの先輩に衝撃

オフのイベントでも引っ張りだこだった(左から)筆者と畠山、香川

【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(15)】僕が入団した1984年当時の南海ホークスは長期低迷の真っただ中にいました。最後にリーグ優勝したのは野村克也さんが選手兼任監督を務めていた73年のこと。戦後間もないころからチームを率いた鶴岡一人監督が日本シリーズで巨人相手にバチバチと火花を散らしていたころの面影はなく、77年の2位を最後に6年連続でAクラスからも遠ざかっていました。

そうはいっても、田園風景の広がる鳥取県倉吉市で生まれ育った僕にとっては何もかもが驚きの連続でした。本拠地は大都会の大阪・ミナミにある大阪球場で、二軍の合宿所があったのも仁徳天皇陵にほど近い中百舌鳥(なかもず)。町の規模から人の多さまで、何にしても故郷とは桁違いです。

1月12日スタートの合同自主トレからチームに合流すると“パンチパーマのおじさんだらけ”の先輩選手たちにも驚かされました。もちろんヘアスタイルばかりでなく、体の大きさに豊富な運動量も当然ながら高校生の比ではありません。

ただ、物おじしていては埋もれてしまいます。僕は倉吉北高時代に「1年間の対外試合禁止」のため、2年夏を最後に公式戦で投げていないことを考慮されてキャンプ二軍スタートが早々に決まっていましたが、何かアピールしなければ…と思ったのでしょう。視察に訪れた穴吹義雄監督に向かって「僕にも投げさせてください!」と直訴する荒業に出たりもしました。

入念にキャッチボールをしてから“ドカベン”の愛称で全国区人気を誇っていた捕手の香川伸行さんを相手に10球ほど。翌日の新聞を見ると、デモンストレーションとしては上出来だったようです。香川さんが「ボールが手元でグーンと伸びてきた。また楽しみな投手が入ってきたという感じだね」とコメントしていただけでなく、穴吹監督も「良すぎて困るぐらいだ。去年の畠山より上」と池田高のエースとして82年夏の甲子園を制した1学年上の畠山準さんを引き合いに絶賛してくれました。

もちろん、こうした褒め言葉をうのみにはできません。ましてや穴吹監督は球団の“宣伝部長”として、マスコミ向けのリップサービスが上手な方だったのでなおさらです。とはいえ、無理はさせられないにしても使えるものなら使いたい――という思いを強くしていたようでした。

このとき、僕の投げる姿を見て「稲尾の再来」とまで言ってくれた方がいました。僕の野球人生に大きく関わることになる恩師で、投手コーチの河村英文さんです。チームの長期低迷と英文さんの熱意によって、高卒ルーキーの僕は当初の構想とは異なる方向へと導かれていきました。

☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。

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