【インタビュー・下】元九州大島原地震火山観測所長 太田一也さん  「悔やまれる 人的被害」 反省残る 報道陣への遠慮 雲仙・普賢岳大火砕流30年

噴煙を巻き上げる大火砕流発生の直前=1991年6月3日、島原市北上木場町

 -198年ぶりの噴火。当時は報道陣の取材活動が熱を帯びていた。
 何と言っても、大火砕流惨事の最大の要因は、報道陣のゆがんだ使命感。迫力ある映像を他社と競う過熱取材ではなかっただろうか。報道の自由を振りかざし、取材のためなら少々のことは許されるという特権意識も問題だった。避難勧告を法的拘束力がないからと軽視した希薄な防災意識がそれらを後押ししてしまった。
 報道陣としての誇りとおごりを履き違え、取材で得た火砕流に関する知識を、自らの危険回避に生かせなかった。避難を勧告された定点で、迫力のある火砕流映像を危険をおかしてまで撮影する社会的責任があったとは思えない。社会が必要とする火砕流の伸び具合や被災状況は、ヘリを使った上空からの撮影や我々観測者側の情報提供で把握できたはず。それは連日報道されていて内容も十分だった。間近な地上からの映像は、住民が必要としていたものではなく、報道各社が紙面や番組の視聴率を競うのに必要だったということに過ぎないと思う。

 -避難勧告を順守させるには。
 権力や権威、信頼性が不可欠で、先方から見れば私自身にそれらが欠如していたことが一因だと考える。当時は島原市長の避難勧告でさえ報道機関は無視してきたのに、ましてや一介の研究者の進言による退去要請など到底容認できなかったであろう。素直に自社だけが受け入れれば、迫力ある映像の取材競争に敗れることになる。
 退去する、もしくは退去させるための弁解に足り得る権威筋の指示や見解が本当に必要だったのかどうか、人命に関わることなのに…。今でも疑問が尽きない。普賢岳を専門に長年にわたって観測研究を続けている唯一の地元大学観測所の警告に、報道陣はもう少し耳を傾けてほしかった。

 -噴火災害をどう伝承すべきか。
 自身の経験・反省を踏まえ、普賢岳が噴火した経緯を100年、200年先の人に伝えたいとの思いから一昨年、回想録を刊行した。後世の噴火に役立ててほしい。ただ、伝承や教訓というのであれば、危険な場所に石碑を建立すべきだ。言い伝えと違い、刻まれた内容は未来永劫(えいごう)、変わることがない。史実を後世に伝える最高の手段だ。
 火砕流は突然襲ってきたわけではない。避難勧告を守ってさえいれば、死者は出なかった。活火山と共生するためには、行政の指示を守り、火山観測者の忠告に従うことが大事だ。どんなに防災意識があっても、危険を避けようとする強い思いや人命を守ろうという責任感・使命感がなければ火山災害の危険を避けることはできない。

 -噴火災害の風化が相次いで指摘されている。
 当時を知らない世代が増え、火砕流の脅威が次第に忘れ去られようとしている。水無川流域の火砕流本体の到達域にはハゼの木を、その外縁部の焼損域にはイチョウの木を植えて、その痕跡を後世に伝えるべきだ。秋になるとハゼの葉は真っ赤に、イチョウの葉は鮮やかな黄色になる。仁田峠のような高い場所から見ても、被災範囲が明瞭に識別できる。
 よく記念樹として植えられる桜の樹齢が70年程度に対し、イチョウの寿命は千数百年で、高さが20メートルを超える大木になる。二度と死者を出さないよう防災意識を高めるために、イチョウの植樹は最適なやり方ではないだろうか。

 -あの日から30年もの歳月が過ぎた。古里の復興について思うこと、感じることは。
 島原には立派な砂防ダムができた。土石流は砂防ダムが食い止めてくれるので住民は安心していい。山の斜面から流出する土石が砂防施設に移動し堆積するが、警戒区域内であっても、重機を遠隔地から無線操作する無人化施工で土砂の除去工事をすれば済む。危険な場所に入らなければ、溶岩ドームが崩壊したとしても、退避指示があってからの避難で間に合う。


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