デヴィッド・ボウイとベルリンの壁、東側から聞こえてきた5,000人の「ヒーローズ」 1987年 6月6日 デヴィッド・ボウイのコンサートがベルリンの壁の前で開催された日

デヴィッド・ボウイ「ベルリンの壁コンサート」東側に集まった5,000人

1987年6月6日、デヴィッド・ボウイが西ドイツの旧国会議事堂前で野外ライヴを開催した。そこはベルリンの壁と隣接した場所にあり、ボウイは設置した巨大スピーカーの一部を壁の反対側に向けて演奏した。その先には約5,000人の東ドイツの人達が集まっていた。

今でこそ歴史的な意義をもって語られることの多いライヴだが、当時17歳だった僕は、正直なところ、ほとんど記憶がない。おそらく、あまり大きく報じられなかったのではないだろうか。というのも、ベルリンの壁が崩壊するのは1989年11月9日のことで、このライヴの2年以上も後なのだから。あの頃、壁がわずか数年でなくなるなんて、誰も想像していなかったと思う。

しかし、あの時に東側の壁に集まった5,000人にとっては違った。銃を持った警察との押し合いの中で、逮捕者を出しながらも、「壁をなくせ!壁をなくせ!ゴルバチョフ!ペレストロイカ!」と声を上げ続けた彼らの心の叫びは爆発寸前だったのだ。今となれば、それが痛いほどわかる。そして、その声は壁の向こう側にいたボウイの耳にも、はっきりと届いていたことだろう。

傑作アルバム「ロウ」と「ヒーローズ」、ボウイとベルリンの深い関係

ボウイとベルリンの関係は深い。1976年、過度のストレスからドラッグの闇にはまり込んでいたボウイは、西ドイツを中心に発信されるインダストリアルなサウンドに惹かれ、西ベルリンを訪れる。ヨーロッパ発のこの新しい音楽の波は、アメリカ音楽に比べてシリアスで具体的な社会性をボウイに感じさせた。そして、西ベルリンでは人目を気にせずに街を歩くことができたという。もしかすると、ボウイにとっては、それが何よりも重要だったのかもしれない。

ボウイはイギー・ポップとアパートで共同生活を送りながら精神状態を回復させ、ブライアン・イーノの協力を得つつ、全キャリアでまさにピークと呼ぶべきクリエイティヴな音楽を創造していくことになる。

ボウイは1977年の夏が終わる頃、スイスへ居を移しているので、西ベルリンで暮らしたのは約1年ということになる。その間に『ロウ』と『ヒーローズ』という傑作を完成させたのだから、西ベルリンでの日々がいかに実りあるものだったかは明白だろう。ちなみに、“ベルリン三部作” のひとつとされる『ロジャー』は、ベルリン録音ではない。イーノとの共同作業が続いたことから一括りにされているが、サウンドは前2作と比べて穏やかで開かれたものになっていると思う。

『ロウ』と『ヒーローズ』という2大傑作がレコーディングされたのは、西ベルリンのハンザ・スタジオで、それは壁のすぐそばに建っていた。スタジオの窓からは、銃を持った警備兵の下で待ち合わせをする恋人たちの姿が見えたという(プロデューサーのトニー・ヴィスコンティと彼の恋人だったと言われている)。そうした光景が名曲「ヒーローズ」のイメージを作り上げる一助となったことは、想像に難くない。

東西冷戦の象徴、ベルリンの壁が生んだ悲しい歴史

ここでベルリンの壁について少し記しておきたい。第二次世界大戦で敗戦国となったドイツは、東西冷戦の勢力抗争により国を分断される。首都であったベルリンは東ドイツの領土内にあったが、米英仏ソの4ヵ国で分割統治することになり、ベルリン市内は東西を自由に行き来できる唯一のエリアとされた。

ところが、1961年8月13日の深夜、東ドイツが西ベルリンを取り囲むように有刺鉄線を張り巡らし、一夜にして東西の行き来を遮断。西ベルリンは東ドイツの中の孤島と化した。その後コンクリートの壁が築かれ、1989年11月9日に崩壊するまで、28年間、東西冷戦の象徴としてそびえ立つことになる。

想像してみてほしい。ある朝目が覚めたら街が有刺鉄線で囲まれていて、その向こう側にいる家族や友人に突然会えなくなることを。それがベルリンで起きた現実だった。どれだけの悲しみが胸を覆い、どれだけの涙が流され、壁を超えようとしてどれだけの命が失われたことだろう。

名曲「ヒーローズ」、壁の向こう側からも聞こえてきた合唱

ボウイがレコーディングスタジオの窓から毎日のように眺めていたのは、その壁だった。馴染みのカフェでは、家族や仲間と引き裂かれた人達の話を聞く機会もあったかもしれない。そして、この土地で心の傷を癒した自分自身についても、きっと考えることがあっただろう。

だから、1987年6月6日、ボウイはスピーカーの一部を壁の反対側に向けたのだ。10年前に暮らした街の悲しい歴史は、ボウイにとって他人事ではなかったのだろう。

「今夜は壁の向こう側の友人たちのために、みんなで幸せを祈ろう」。そう言って歌い出したのは、背後の壁からインスピレーションを得た名曲「ヒーローズ」だった。すると、壁の向こう側からも合唱が聞こえてきた。その歌声はサビに向かって高まっていく。

 僕らは英雄になれる
 たった1日だけなら

彼らにとってその1日とは、壁がなくなる日のことだったのかもしれない。そしてボウイにとっては、もしかするとこの日だったのかもしれない。生前ボウイはこの時ことを振り返り、こう語っている。

僕はけっして忘れないだろう。自分がやってきた中でも最高に感動的なステージのひとつだった。

ふと立ち止まって考える。なぜデヴィッド・ボウイだったのだろうと。まるで何かが彼を選んだかのように、あの時、ボウイは壁の前に立った。そして、スピーカーを反対側に向けたのだ。つくづく不思議な縁だと思う。しかし、それはベルリンの人達にとっても、ボウイ自身にとっても、素晴らしい体験だったに違いない。

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※2020年6月6日に掲載された記事のタイトルと見出しを変更

カタリベ: 宮井章裕

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