山下達郎「メロディーズ」クリスマス・イブが収録された色あせぬ名盤! 1983年 6月8日 山下達郎のアルバム「MELODIES」がリリースされた日

山下達郎のアーティストキャリアを決めたアルバム「MELODIES」

1983年6月8日、山下達郎のアルバム『MELODIES』が発売された。今では、あの「クリスマス・イブ」が初めて収められたアルバムと認識している人も多いかもしれない。実は、それも重要なポイントのひとつなのだけれど、それだけではなく『MELODIES』は、このアルバムが無ければその後の山下達郎のアーティストキャリアはまったく違ったものになっていたのではないかと思える作品なのだ。

山下達郎が結成していたバンド、シュガー・ベイブでレコードデビューしたのは1975年のことだった。しかしデビュー曲「DOWN TOWN」も、アルバム『SONGS』も、一部の音楽ファンには注目されたもののヒット作とはならず、翌年にはシュガー・ベイブも解散してしまう。

山下達郎は、RVCのディレクター小杉理宇造の誘いに応じて1976年12月にファーストソロアルバム『CIRCUS TOWN』を発表する。この作品も、音楽性の高さを評価されたもののセールスは不調だった。しかし、これは山下達郎だけの問題ではなかった。1970年代の音楽ムーブメントの中心に居たのはフォーク系アーティスト達で、サウンドにこだわるロック・ポップス系アーティスト達にはなかなかスポットが当たらなかった。

乱暴に言えば、当時のリスナーには “音” より “言葉” の方が届けやすかった。サウンド志向の強いアーティストには “良いんだけど売れない” というレッテルが張られていった。

やりたいことをぶち込んだ覚悟のアルバム「GO AHEAD!」

山下達郎も自分のアーティスト活動に関しては悲観的で、1978年の4thアルバム『GO AHEAD!』は、これが最後のレコードになることを覚悟して出したという。そのため、最後にやりたいことをぶち込み、多彩な音楽性が混在する “五目味” アルバムとなった。

しかし、それが逆にチャンスになった。アルバム販促の目的でシングルカットした「LET’S DANCE BABY」のカップリング曲だったファンクナンバーの「BOMBER」が、洋楽ソウルしか流さない大阪のディスコで人気となる。これをきっかけにレコードも売れるようになっていき、山下達郎への注目度が高まっていったタイミングでCMタイアップつきでリリースされた「RIDE ON TIME」(1980年)で彼はブレイクを果たしたのだ。

シングルヒット曲と同じタイトルのアルバム『RIDE ON TIME』は山下達郎のアルバムとして初のチャート1位を獲得。彼はたちまち “時の人” となり、軽快で洗練されたポップな “タツロー・サウンド” は、ウォークマンやカーステレオによってリゾートやドライブ、さらにはオシャレな街歩きを盛り上げる音楽としてもてはやされた。レコード会社も “夏だ、海だ、達郎だ” といったキャッチフレーズでそのブームを掻き立て、セールスを伸ばしていった。

山下達郎が練った次に進むべき戦略とは?

しかし、彼自身はこのブレイクに浮かれてはいなかった。ブレイクはあくまで一時的な現象で長続きはしないし、自分のアーティストとしての寿命を延ばすことにもならないと考え、次に進むべき戦略を練っていった。

結論は、自分がアーティスト活動を続けられる期間はそう長くはないだろう。その後はレコード会社のプロデューサーなど制作スタッフとして仕事を続けられる体制をつくるというものだった。

1982年1月、山下達郎は『RIDE ON TIME』でつくられた “夏男” イメージに沿ってリゾート感覚を強く意識したアルバム『FOR YOU』を発表し、チャート1位に送り込む。こうしてレコード会社に利益還元する一方で、独立に向けて動いてゆく。そして、1982年7月に初のベストアルバム『GREATEST HITS OF TATSURO YAMASHITA』を発表するとともに山下達郎はRVCとの契約を解除し、先に独立していた小杉理宇造が設立したレコード会社アルファ・ムーンにアーティスト、さらには役員として移籍した。

こうして自らの環境をガラリと変えた山下達郎は、1983年4月に移籍第一作シングル「高気圧ガール」を発表、そしてこの曲を先行シングルとした移籍第一弾アルバムが『MELODIES』だった。

移籍第一弾アルバム「MELODIES」で山下達郎がやろうとしたこと

『MELODIES』の制作にあたって山下達郎は、“自分がアーティストとしていつまで活動するか” を考えたという。とにかく設立したばかりの自分達のレコード会社を軌道に乗せなければならない。そのために数年間はアーティスト活動を続ける必要があるだろう。しかし、その後自分はスタッフ側に廻るというプランをたてた。そして、アーティスト活動を終えた山下達郎が就任するために制作部長というポストが用意され、当面は空席のままとされた。

当面はアーティスト活動を続けることにはなったが、現在の彼についていた “夏男” “リゾート” というイメージにこだわり続けても、すぐに飽きられてしまうことは目に見えていた。だとすれば、少しでも長く活動を続けていくためにも、無理に世の中のトレンドに合わせるのではなく、“本来自分がやりたかった音楽” に取り組んでいくべきだと考えた。言ってみれば、シュガー・ベイブでやろうとしていたところ、いわば “原点” に戻る作品として次のアルバムをつくろうと考えたのだ。

確かにアルバムタイトル『MELODIES』には、シュガー・ベイブのアルバム『SONGS』に通じるニュアンスが感じられたし、実際に聴いてみても『RIDE ON TIME』や『FOR YOU』とはかなり感触が違うアルバムという印象があった。前作がアウトドアでも聴きたくなる “外交的” な作品だったとしたら、『MELODIES』には、部屋でじっくり曲と向き合いたくなる “内省的” な雰囲気が色濃く感じられたのだ。

音楽からしっかり伝わってきた言葉のリアリティ

実際、このアルバムには “夏のイメージ” が感じられないという戸惑いの声も大きかったと聞く。たしかに夏が感じられるアルバム収録曲と言えば、全日空沖縄キャンペーンのタイアップ曲でもあった先行シングル曲「高気圧ガール」くらいだろう。

それよりも『MELODIES』を聴いて印象的だったのは “言葉のリアリティ” だった。けっしてサウンドへのアプローチが弱くなったということではない。曲によってはほぼすべての楽器を一人多重でレコーディングするなど、音楽面での表現バリエーションも確実に増している。そのクオリティの高いサウンドと歌詞の関係性がより密接なものになっていると感じられたのだ。それまでは、どちらかと言えばサウンド中心に聴くことが多かった彼の音楽から言葉がしっかり伝わってくるようになったという気がした。

その大きな理由は、グレン・キャンベルの曲のカバー「GUESS I’M DOMB」と、前作『FOR YOU』制作時にレコーディングされていた「BLUE MIDNIGHT」以外のすべての曲の歌詞を自分で書いていることにあったと思う。山下達郎自身も、それまではサウンドの構築に高い比重を置いていたのが、言葉の表現に力を注ぐことで、純度の高い自分の表現として作品を成熟させていこうとしている。アルバム全体から、そんな姿勢が伝わってきたのだ。

山下達郎の制作姿勢を確立させたアルバム

実は、『MELODIES』において歌詞を自分で書くということは、サウンドづくりにおいて、他のミュージシャンでは個性を表現できない曲はすべての楽器を自分で演奏するということと同じ意味をもっているのだと思う。それは、サウンド、歌詞、そしてもちろん歌、その曲の構成するすべての要素を自分のものとして表現することで、自分ならではの音楽を表現するということだ。トータルにその姿勢が貫かれているから、僕は『MELODIES』を聴いた時に、これはシンガーソングライター山下達郎を本気で表現するアルバムなのだと感じた。

『MELODIES』は、流行とは関係なく自分の中にあるエバーグリーンな音楽に向き合っていこうとする山下達郎の制作姿勢を確立させたアルバムなのだ。

まさに “時流に乗っている” と見られていた彼にとって、あえて時流から距離を置くという決断は大きな勇気を必要とするものだったし大きな賭けでもあったのだと思う。

しかし、今僕はこのアルバムをなんの古さも感じずに聴き通すことができるし、あえて言えばなつかしさすら感じない。純粋に、今聴くべき音楽として聴いている。そのことが、山下達郎のチャレンジが大成功だったことを、なによりも雄弁に物語っているのだと思う。そして、そんなエバーグリーンの想いを込めたアルバムに、まさに日本のスタンダードとなる「クリスマス・イブ」が収められていたというのも、けっして偶然ではないだろう。

山下達郎が一貫してつくり続けた “スタンダード曲”

「RIDE ON TIME」でブレイクしてから、山下達郎は80年代の流行をリードしたひとりと見られることが多い。しかし、僕に言わせれば『MELODIES』以降の山下達郎は一貫して “スタンダード曲” をつくり続けてきただけなのだ。「クリスマス・イブ」にしても、その後のヒット曲にしても、彼はけっして流行りを狙ったわけではない。彼は自分の信じる音楽と向き合い、その時々の “想い” を自分なりの “表現様式” で作品化してきたに過ぎない。それがリスナーの心を捉え “流行現象” を生み出したとしても、それはあくまで結果なのだ。

そんな山下達郎の姿勢を観ていると、流行を生み出せるのは、流行を追う者ではない。その時代の異端こそが次の時代の流行を生むことが出来る、という格言を思い出す。

山下達郎は、ことあるごとに「こんなに長くアーティスト活動が続けられるとは思ってもみなかった」と語る。『MELODIES』を産んだ1983年のチャレンジは、は山下達郎自陣のアーティスト活動の寿命を延ばす、という結果ももたらした。その結果、ファンとして喜ばしいことに、彼の “制作部長” 就任はいまだに実現していない。

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カタリベ: 前田祥丈

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