GHQ検閲「短歌長崎・青い港ニ関スル書類」発見 戦争と検閲 身近に 

名称、部数などがまとめられた県内発行の定期刊行物のリスト(一部・写真左)、「東條英機」の名がある内務省発行の文書(写真右)

 終戦約1年後に長崎市で復刊された月刊誌「短歌長崎」(戦時中までの「青い港」を改題)の検閲を巡り、連合国軍総司令部(GHQ)と発行人との間で交わされた書面などの実物がまとめられた「青い港ニ関スル書類」が、県内で新たに見つかった。発行人で長崎市の歌人、小山誉美(たかみ)さん(1898~1989年)が、終戦までは内務省が、戦後はGHQが行った検閲に関する書類をきちょうめんに整理していた。
 出版物を巡っては戦前の出版法(1893年施行)に基づき、終戦まで内務省が内容の検閲を実施。終戦後はGHQが1945年9月に「プレスコード(新聞準則)」を発令し、49年まで検閲を行った。

■最重要書類
 「青い港ニ関スル書類」は誉美さんの長男、曙美(あけみ)さんの諫早市の自宅に保管されていたのが、今年に入って確認された。題名と「最重要書類」の文字がある縦26センチ、横18センチの表紙に続いて、36~50年の書類など約80点(125枚ほど)が、ほぼ古い順にとじこまれていた。公的機関が発行した文書の実物のほか、小山さんが送った文書の写しも含まれる。用紙は黄ばんで劣化が激しい状態。
 最初期の書類は36(昭和11)年に熊本逓信局(当時)が発行した「第三種郵便物認可書」。41年に内務省が交付した「青い港」の出版許可書には内務大臣「東條英機」の名がある。

「父は歌誌の発行が使命と考えていたのではないか」と話す故小山誉美さんの長男、曙美さん=諫早市の自宅

 戦後分はGHQの検閲部門「民間検閲部(CCD)」や、同部で広島以西を担当した福岡市の「第3地区検閲局」との間でやりとりされた書類が多数。46年7月発行の「短歌長崎」復刊第1号について、CCDが一部の掲載歌に赤線を引いて削除を命じ、返送した実物が含まれていたのをはじめ、「プレスコード」全文(英文・和文)、GHQが発行人に検閲の事実を漏らさないよう念押しした文書などがあった。

■「違反」を通知
 47年9月の第3地区検閲局からの文書では、同年7月発行の「短歌長崎」第7号について、発行後の事後検閲で2首がプレスコードに「違反」したことを通知。小山さんはすぐさま「違反なきよう留意致します」とした「受領書」を同検閲局宛てに送っていた。
 「長崎警察署」や「県知事」などの公的機関も同様に、GHQの方針に従うよう求める文書などを送付している。雑誌の出版状況や会員の氏名などの報告を求めた調査目的の文書も。県作成とみられる「県内で発行されている定期刊行物」のリストは、新聞や雑誌の名称、発行部数などが網羅されている。
 このほか47~49年、公的機関に対し、出版用紙の割り当てを求めて定期的に提出していた「指定生産資材割当申請書」など。

「青い港ニ関スル書類」に含まれる主な資料

■「発行は使命」
 書類の現存を確認した西彼長与町の堀田武弘さん(79)は長年、地元の短歌雑誌「あすなろ」に「長崎歌人伝」を執筆。小山さんの調査を進める過程で昨年、掲載歌の一部が墨で黒く塗りつぶされた「短歌長崎」復刊第1号を古書店で発見、入手。墨塗りの部分は、今回見つかった同号の冊子で、GHQ側が赤線を引いた歌と合致した。
 「米国(プランゲ文庫)にしかないと思っていた資料が県内に残っており、しかも、きれいに保管されていたことに驚いた。プレスコードによる検閲が行われていたことが、身近に実感できた」と語る。
 曙美さん(82)は「父は、戦後に歌誌の発行を続けることが自分の使命と考えて、GHQに従ったのではないか。書類が研究に役立てば」と話す。


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