【インドネシア全34州の旅】#15 パプア州 ④戦争編(ビアク) 息をのむ美しさの海、戦争の名残り

文・写真…鍋山俊雄

パプア州についてのここまで3回は、同じインドネシアに属しながら、一際ユニークな民族や慣習の一端について、旅で見聞きしたことをまとめてみた(①国境編②山編③海編)。第4回は「戦争とパプア」という視点で書いてみたい。

インドネシア中を旅する中で気付くことの一つに、太平洋戦争時の日本軍の塹壕や洞窟の多さがある。「Goa Jepang(日本の洞窟)」と総称され、きちんと整備・保存されて観光スポットになっている所から、山の中の単なる洞窟で、地元の人に「ここに昔、日本兵がいた」と聞いて知るようなケースもある。

パプア(ニューギニア島)は太平洋戦争での戦闘が激しかった地域で、ビアクのほかにも、ジャヤプラ、西パプア州都のマノクワリなど、日本軍が駐留していた地域も多い。その中で、今回はビアク島について書くことにする。

ビアク島に興味を持った理由は、パプアについていろいろ情報を集めている際に、太平洋戦争当時の日本軍の激戦の話が多く見つかったことだ。ビアク島には日本軍が司令部を置いていた鍾乳洞があり、そこでも大きな被害が出たことを知った。一方で、インドネシアの現代史の中では、パプア独立運動の弾圧に絡み、インドネシア国軍が関与したともされる「ビアク大虐殺」という事件が、スハルト大統領退陣後の1998年に起こっている。息をのむような美しい海に囲まれ、陽気な人々が平和に暮らしているように見えるビアク島は、実はこのような歴史を抱えた島なのである。

ビアク島には、週末2日間だけの弾丸旅行で行って来た。金曜深夜発の夜行便でマカッサルを経由して、ビアクには土曜早朝に到着する(上写真)。

ビアクの空港で拾ったタクシーでホテルに向かう道すがら、運転手さんと意気投合し、到着した1日をフルで、ガイドしがてらの案内をお願いすることにした。乗り換え付きの夜行便でほとんど寝ていなかったので、2時間ばかりホテルで寝た後に、先ほどの運転手さんに迎えに来てもらい、早速、島巡りをスタート。

まずは日本軍の洞窟に向かった。街からそれほど遠くなく、30分少々、走っただろうか。小高い丘の上、あたかも日本の神社を模したような入口をくぐると、目に飛び込んで来たのは、高射砲と爆弾だった。当時のさまざまな武器、弾薬などが、1カ所に集められ、展示されている。そちらに目を奪われながらも洞窟入口に向かって森の中を進んでいくと、日本人慰霊碑があった。一礼して通り過ぎると洞窟が見えてきた。

ゆっくりと階段を降りて行くと、中は思ったよりも、かなり広い。ほかに訪問者もいない中、静まり返った、ひんやりとした空気の下、降りて来た方向と反対側にふと目を向けると、天井が抜けて光が降り注いでいる。当時、2000人余りの日本兵がここにいたとのこと。その人数からすると、この洞窟も決して大きくはなかっただろう。

米軍はここに、ガソリンを入れたドラム缶を投げ入れて攻撃し、多数の日本兵が犠牲になったそうである。現実のその場所に立ち、当時の人々の思いを想像してみると、思わず手を合わせて祈らずにはいられない。

天井の穴から柔らかい光が降り注ぐ中で、うっすらと地面が見える洞窟の中も、あちこちにドラム缶がまだ残っている。

毎年、日本から遺骨収集や親族の方がいまだに、ここに来られているそうだ。

元の入口に戻ってみると、受付のインフォメーションセンター前には、当時の飯盒、身の回りの品などが展示してある。センター内には、当時の日本軍の進攻の様子、遺骨収集作業に来られた方々の写真などがある。

ニュースや教科書の挿絵でしか見聞きしたことのなかった戦場が、こうして現地で自分の目で見ると、まさに百聞は一見に如かずであり、戦後70年を超えた今でも、圧倒的なメッセージを持って、見る者の心に訴えてくる。

展示されている場所から出て、飛行場が見える丘に歩いて行くと、澄み切った青空の下、美しい海と滑走路が見える。ここにも機銃の遺跡が残っている(これは日本軍ではなく、元々、オランダ軍が設置した物らしい)。当時の日本兵の方々も、ここで、当時も美しかったであろう海を見ながら、祖国のことを思い出していたのであろうか。

海岸沿いの道を車で走り、第二次世界大戦の慰霊碑に向かう。慰霊碑は海岸沿いの村の外れに、ひっそりとあった。道路を挟んだ反対側は、素晴らしい色の海が広がる海岸。地元の子供たちが波打ち際で遊ぶほかは、ひと気もない。しばらく、その素晴らしい海に向かってシャッターを押し続けた。

その後、もう少し車を進め、野鳥園に立ち寄った。パプアで有名な極楽鳥は見られなかった。もっと山奥の方に行かないと見られないらしい。

極楽鳥をあしらったバッグのお土産

再び車を走らせ、Bosnik(ボスニック)という小さな村まで出た。大きな教会と、海辺には市場があった。ここに来る日本人はそう多くはないのだろう。物珍しそうな視線が集まる。市場に並ぶコーラルブルーの魚やヤシガニなどを眺めた後、再び、ビアクの街に向かった。

道端の小さな村で、大きな十字架の前に、カラフルな模様の小さな舟が掲げてあった。昔から海に囲まれたビアク島の人々は、海洋民族だ。このような舟で、星の位置を頼りに、かなり遠方の地域まで航海していたそうである。

川沿いでは近所の人々が洗濯をしている。洗濯をする人、そこで泳ぐ子供たち。地方へ行けばおなじみの風景である。

戻る道すがら、1998年のビアク島大虐殺について聞いてみた。ビアク島大虐殺とは、スハルト政権の崩壊後、独立運動が再び高まったパプアで、国軍の船2隻に住民200人余りが強制的に乗せられ、ビアク島沖合で殺害され、海に投げ込まれたとされる事件である。運転手さんはその事件の当時、この島には住んでいなかったと言うが、知り合いの中には連絡が取れなくなった人もいるそうだ。

車で街を一周した後、ホテルにいったん戻り、夕暮れから、徒歩で周辺を回ってみた。この街で唯一のショッピングセンターがある中心の通りにホテルはあり、そこから海に向かう道の両脇に個人商店がポツポツ並ぶ。昼間はあまり目立たなかった商店も、土曜の夜になると人通りが増え、にぎやかになってくる。

街で唯一のショッピングセンター

パプア・アートと土産物の店

街の電気屋に入ってみると、新品のブラウン管テレビ、2層式の洗濯機と、ここまでは地方へ行けば普通だが、これに加えて、なんと、新品の足踏み式のミシンがあった。私が子供のころに家にあった物と同じである。まだここでは現役なのだろうか。

店の前ではミニ遊園地まで出て、子供たちが楽しんでいる。海岸沿いのPasar Ikan(魚市場)は、さらに人でにぎわっていた。

翌日は日曜だったので、ホテル近くの大きな教会に行ってみた。日曜の礼拝に、着飾った街の人たちが集まって来る。しばらく、集まる人をぼんやりと眺めながら教会の写真を撮っていたら、ドアの所にいた初老の男性に手招きされた。しばらくビアク島について雑談をした。

パプアはキリスト教徒が多く、カトリックもプロテスタントも両方いるが、ビアク島はカトリックだそう。1855年にドイツ人の宣教師が布教したとのことだ。一方で、パプア各地域には、公務員を中心としたジャワ島などからの移住者もいることから、ムスリムも住んでいて、ビアク島にも大モスクもある。

日曜の昼前の便でビアクを立ち、再びマカッサル経由でジャカルタに戻った。パプアは日本と同じ時差(インドネシア東部時間)のため、帰りで2時間、時計の針が戻るため、パプアを昼ごろに出ても、夕方にはジャカルタに戻ることができる。

初めてのビアク島は、手つかずの美しい海が楽しめる一方で、日本人にとっては戦争の名残りを肌で感じることのできる所だ。私の数ある「週末弾丸旅行」の中で、最も遠距離で、かつ、思い出に残る旅の1つである。

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