「一気に肩がバコンと外れた」 生々しい故障の瞬間…リハビリ支えた“不屈の先輩たち”

昨年限りで現役を引退した高橋朋己さん【写真:球団提供】

高橋朋己さんは昨年限りで現役引退&ライオンズアカデミーコーチ就任

西武で8年間プレーし、2020年に現役を引退した高橋朋己さん。2年目の2014年には抑えや中継ぎとして63試合に登板して2勝1敗29セーブ、13ホールドをマーク。翌2015年には62試合で2勝3敗22セーブ、14ホールドと見事な活躍ぶりだったが、その後は怪我との戦いだった。

社会人の強豪、西濃運輸から2012年ドラフト4位で西武に入団。2014年に29セーブを挙げて新人王候補に名を連ね、オフには日米野球の日本代表にも選出された。2015年は開幕からクローザーを務め、オールスターにも出場するなど順調にキャリアを重ねていた。しかし、2016年4月に左肘の張りにより出場登録を抹消。その後、7月に左肘内側側副靭帯再建手術(トミー・ジョン手術)を受けた。

「3か月待っても無理だったので、早く手術をしたかったです。保存治療で良くなるなら、みんな良くなっている。リハビリ期間中は栄養学を学んで、トレーニングも勉強しました」

翌2017年6月にイースタン・リーグで実戦復帰を果たし、シーズン終盤には1軍でも3試合に登板。2018年はオープン戦から好投するなど復活をアピールしていた。しかし、3月31日の日ハム戦で3点リードの8回に登板したが、左肩に違和感を覚え一死もとれずに降板した。手術明けにもかかわらず、大事な8回を任されていた。「今年こそは」と思った矢先だった。

「オープン戦も状態が良くて、札幌ドームのブルペンでも150キロ出るんじゃないかというくらい調子が良かったのですが、投球練習中にピリっとして、おかしいなあと思ったら、一気にバコンと肩が外れて激痛が走りました。そんなに重症じゃないと思っていたんですけど、肉離れとかも見つかって『1~3か月無理だよ』と言われました。ショックでした。とにかく痛いし、投げられない。でも、最短で戻ろうといろいろな治療をしました」

しかし、その後はイースタン・リーグでも登板機会はなく、オフに育成選手契約になった。背番号は「123」に変わったが、球団は元の背番号「43」を空き番にして復帰を待った。だが、2019年、2020年も登板を果たせず、現役引退を決断した。

現在はライオンズアカデミーのコーチを務める【写真:球団提供】

2014年に日米野球出場、同学年の坂本・柳田・前田らと交流を深めた

「引退を決めた時は、いい意味で無理だと思いました。やれることをやり尽くした。これ以上はもう無理でした。球団には感謝しかないです。こんなによくしてくれた球団に、戦力外を発表させるんだったら、自分からけじめをつけようと思いました。引退試合にセレモニーまでしてもらえた。これ以上は何もありません」

チームには松坂大輔投手や、内海哲也投手ら怪我からの復帰を目指す先輩投手がいた。リハビリに励む中で、その存在が大きかった。

「内海さんは誰よりも早く来て、ウエートルームで身体を動かしていました。松坂さんもリハビリでグラウンドに出られないから、ウエートルームに籠ってみんなが知らないところで追い込んでいた。あの松坂さんが『あー』とか言っていて『嘘でしょ』と思いながら見ていました。陰で努力している。そうじゃなきゃ、メジャーでもあれだけ結果を残せない。素晴らしい先輩方を近くで見られたのは力になりました」

8年と長くはない現役生活だったが、人との出会いが宝になった。中でも、侍ジャパン日本代表のチームメートとの思い出は、かけがえのないものだという。

「一番年俸が低くて、とてもじゃないけど野球の話は聞けないし『自分なんかが……』と申し訳ない気持ちでした。絶対に仲良くなれないと思っていたのに、みんな良くしてくれた。中田(翔・日ハム)は家に招待してくれたり、柳田(悠岐・ソフトバンク)、坂本(勇人・巨人)、前田(健太・ツインズ)は同級生なので会を開いたり、坂本は自分が引退するときに花を送ってくれた。縁があったのが本当に嬉しいです」

高橋さんは2021年にライオンズアカデミーのコーチに就任した。野球を通じて、たくさんのことを学び、大切な仲間と出会った。子どもたちにも、そんな野球の楽しさを伝えていくつもりだ。(篠崎有理枝 / Yurie Shinozaki)

© 株式会社Creative2