【読書亡羊】本は体を表す 面白くなかった『枝野ビジョン』 その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする週末書評。

何一つ「おみやげ」がなかった本

どんな本や記事にも言えることだが、大事なのは「おみやげ」である。

読み終わった後に、ページを閉じても頭や心に残っていること、思わず人に話したくなる一文やエピソードが残っているか。初めて明かされる事実であってもいいし、必ずしも共感でなくてもいい。本の世界から現実に戻った時に手元に残っているもの、それを「おみやげ」と呼んでいる。

いい本や記事にはそうした箇所がいくつもある。お金を出して読んだ本なら、三つくらいはあってほしい。図書館で借りた本なら、一か所あればまあいいか。だが、世の中には本当に「何一つおみやげがない」本も存在する。

立憲民主党代表・枝野幸男『枝野ビジョン』(文春新書)は、そうしたおみやげがほとんどなかった。文章が難解なわけではない。極めて分かりやすく書かれている。悪辣な政権批判のようなノイズが邪魔しているわけでもない。

「資本主義は限界だ」「生産性、という言葉が本来と違う意味で使われていないか」「支え合う社会であるべきだ」という認識や理想にも特に異論はないどころか、むしろ賛成ではある。

だが、「読んでどうだった?」と聞かれても「うん、面白くない」という感想しか出てこないのだ。

政権担当当時のエピソードが全然ない

あるベテラン記者が「政治家の本なんて、面白くなくて当然だよ」と言っていて、確かにそうだなとは思った。しかし、だ。この枝野本は「面白くない」も度を越していて、読者、つまり有権者について一体どう考えているのかと迫りたくなるほどなのだ。

例えば政治における自身の実績。政治家本では自慢話にしかならないのは仕方ないが、党内外の同僚議員が登場したり、その政策を実現したいと思ったきっかけとして、市井の人々から聞いた話といったエピソードが盛り込まれていれば読む方としては分かりやすい。

しかし枝野本にはそうしたものがごくわずかしかない。実績がないからではという声が聞こえてきそうだが、ならば失敗談を詳細に書き、それを現在はいかに経験値に変えるか書いてくれればいい。

だが本書では、政権担当当時の話が盛り込まれているものの、実にさらりと撫でるような記述で終わっている。

二〇〇九年からの民主党政権が、なぜ国民の期待に応えることができなかったか。その答えは(中略)外に向かって大声で叫ぶものではないと考えている。ただ、経験不足が様々な現象の根っこにあったことは間違いなく……

経験不足が災いしたことは渦中にいた人物でなくてもわかることで、〈(立憲民主党は)経験値を生かした「安定感」を示すことが重要であり…〉と言われても、何によってどう安定感を示せるのか、読み取るのは難しい。

読者や有権者のことが見えていない

もう一つ、「読者や有権者のことが見えていないのか」と思わざるを得ないのは、まえがきはともかくとして第一章の内容だ。

このコロナ禍に出版するのだ。通常は、コロナで仕事を失った人や経営が圧迫されている飲食店、映画館などの関係者の立場に寄り添い、「政権は何をやっているのか!」と厳しく指摘するか、もしくは「ダメな政権だが自分たちは様々な提案をしてギリギリの線を保っている。もっとあれもこれも必要だ」と述べてくれることを期待する。

枝野氏の本を手に取るのは多くが野党支持者、政権不支持者なのだから、「枝野さんは分かってくれている」「自民党ではもうダメだ、立憲頑張れ」と思ってもらうようなメッセージを発しなければならない。

ところが。コロナ禍については第3章に引っ込んでおり、頭から〈「新自由主義」的傾向に偏った社会経済システムが(中略)いかに脆弱であったかが明らかになった〉となんだか評論家のような文言から始まる。

間で確かに飲食店など厳しい状況下にある人に寄り添う姿勢は見せており、章末では自己責任社会への批判として〈「官から民へ」「民間でできることは民間へ」というスローガンとプロパガンダが与野党を問わず叫ばれ続けてきた。私自身、そうした流れに乗っていた部分があったことを反省する〉としているが、なんとしても現状を変えたいという熱や意思というものが伝わってこない。

あえてそうした感情的な記述を排しているようなのだが、おかげでどこか他人ごとのようにしか読めない文章になっている。つまるところここが問題で、納得する記述もないではないのだが、全体を通じて「あなたは何目線で政治を論評しているんですか?」というトーンが続いているのだ。

一方、肝心の第1章で何を扱っているかと言えば、〈「リベラル」な日本を「保守」する〉と題し、「安倍的な保守派の国家観は明治を起点としているが、我こそはそれ以前の日本の歴史をも重んじる本当の保守である」というお題目が飛び出してくる。

記述自体はこれまた同感ではあるのだが、それだけに読んですぐに思ったのはこういうことだ。

「政権を獲る準備ができた、と宣言したうえで、自らのビジョンを綴る本で、最初に言いたいことが、それなの???」

なぜ、と不思議に思っていたが、安倍晋三前総理の『新しい国―美しい国 完全版』(文春新書)を手に取って「なぁーんだ」と気づいた。

『美しい国』の第一章の冒頭で安倍氏が「リベラルと保守」について語っているのだ。その向こうを張ったということなのではないかと思うが、これまた読者(国民)置き去りの感が否めない。

もう一冊の政治家の「ビジョン」本

そもそもどうかと思うのは、タイトルである。

『枝野ビジョン――支え合う日本』……確かにわかりやすい。だが、昨年9月に自民党の岸田文雄氏が『岸田ビジョン――分断から協調へ』(講談社)なる書籍を出している。後から出して被せてくる、とはどういうわけか。

この岸田本、おそらく前々から準備していたのだろうが、安倍前総理の突然の辞任により総裁選が早まったことで、あえなく総裁選当日の発売となった。間に合わなかったのだ。

その「持ってなさ」に涙しつつ読んでみると、前半はいわゆる「理念」を並べてあり、そうそう面白くはない。が、さすがに長く外務大臣を務めただけあって具体的な成果や興味深いエピソードはある(核廃絶のための賢人会議の様子や、海外要人とのやりとりなど)。

また後半では若干の身内臭はするものの、「人間・岸田文雄」に焦点を当てたり、「宏池会」内のエピソードを綴ってもいる。ドライマティーニを作るべくシェーカーを振る石原伸晃も登場。ちょっと見てみたい光景だ。

「加藤の乱」の内幕やその後日談などは、ついつい読んでしまう内容だ。「みんなが知っているあの事件の裏側」を差しさわりない程度だが記しておく、ある種の読者サービスともいえる。また、「岸田って誰?」の声にお応えしようとの意図も感じられる。

一方、枝野本からは、本人の人となりも、党内の様子も伝わってこない。暴露話を読みたいわけではなく、「ああなるほど、枝野さんってこんな人なんだ」という情報に触れたいと思うのが人情ではないか。

これでは「そもそも枝野氏自身、党内の議員との交流がないのではないか」と邪推してしまうほどだ。

有権者や読者は「利益」を求めている

枝野本のあとがきには〈あえてこの時期に、少し理屈っぽくて難しい、「理念」について記した本を世に問うことにした〉とこうした批判を先手で封じるようなことを書いている。わかっていて敢えてやっているなら何も言うまい。

ただ、有権者は「この議員、この政党を支持すれば、有権者である私にも何らかの利益がもたらされる」と思うから支持する。それは経済的利益とは限らない。

「自分の不満、思いをわかってくれている」「それを政治の現場で進めてくれる」「意外に柔軟で、人望のある人なんだ、じゃあもう少し応援してみようか」という期待でもいい。

支持した以上は何らかのおみやげが欲しいと思うのは「読者」に限らないのだ。

梶原麻衣子 | Hanadaプラス

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