【新宿ゴールデン街交友録 裏50年史】「唯尼庵」で一触即発 俺の下手な「山谷ブルース」を聞いた岡林信康が!!

先週書いたG2通りの中程の店「唯尼庵(ゆぃにあん)」の続き!

キヨ(太田喜代子)が仕切りアングラ色強く、集うお客も一癖も二癖もある連中ばかりだった。その癖の強い連中を目当てに可憐な女子も寄って来るから益々賑やかになる。立ち飲みも当たり前、おな子を膝の上に乗せ興じる輩も…。

そんな客の中に岡林信康もいた。何度か会ってはいたが、当時“フォークの神様”とか呼ばれもてはやされていた。1970か71年だろう。当時の私は「はみだし劇場」を旗揚げしたばかりで怖いもの知らず、粋がり肩で風を切り飲み歩いていた。

その勢いそのままに唯尼庵のドアを開けた。一番奥に岡林の姿が見えた。途端に俺は“今日の仕事は辛かった~~”と、山谷ブルースの一節を唄うというより怒鳴ったのだ(俺の唄の下手なのは有名)。勿論キーも何も合っていない、雑音でしかない。

それを聞いた岡林「何オ!」と。

カチンと来たのか立ち上がり一触即発の雰囲気に…。さ~と店の空気が凍り付いた。

咄嗟に立ち上がり止めに入ったのが、当時売り出し中のイラストレーター・黒田征太郎だ。大阪弁の柔らかさで場を和ませ、大事に至らなかった。その後の事は憶えていない、一緒に呑んだのか、場を変えたのか…。今思えば岡林25歳。俺も24歳。負けん気の強いヤンチャ盛りだったな。今のクラクラにその岡林の71年の日比谷野外音楽堂の「自作自演 狂い咲き」のポスターが貼られている。イラストは黒田征太郎。入場料は500円。そうか黒田さん。もうその時すでに繋がっていたのか…。

その後、黒田さんには1974年から私の劇団のポスターを描いて貰っている。47年の付き合いだ(その経緯は後に!)。

今思えば、その喧嘩仲裁が縁なのかずいぶんと永い付き合いとなった。まさに奇縁だ。(敬称略)

◆外波山文明(とばやま・ぶんめい)1947年1月11日生まれ。役者として演劇、テレビ、映画、CMなどで活躍。劇団椿組主宰。新宿ゴールデン街商店街振興組合組合長。バー「クラクラ」オーナー。

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