巨人軍多摩川グラウンドの春夏秋冬

多摩川グラウンドでキャンプを行う巨人軍(1976年1月)

【越智正典 ネット裏】巨人の男たちにとって思い出多い「多摩川」は巨人軍専用球場として1955年6月11日に開設された。国有地の多摩川河川敷3万3459平方メートルを建設省関東建設局から3年更新で借りたのである。水道はなかった。

グラウンドキーパー務台三郎が品川区五反田の家から戦争中にどの家にもあったコンクリートの防火用水槽を運んで来て、一塁ベンチ横に埋め水を貯めた。岐阜高校から入団した新人捕手森昌彦(祇晶)が感謝した。「練習が終わるとすぐに手が洗える」。森は新人のときから手を大事にしている。

多摩川の春はレフトネットフェンスの先の桜の樹に捕手藤尾茂が打球をぶつけて始まる。花が散る。春は新人の当番が始まる季節である。ドラフト2位で65年に入団した鎌倉学園の長距離打者林千代作、春はボール当番。練習が終わると大きなボール袋をかついで土堤を歩いて多摩川寮に向かったが途中で動けなくなった。延岡の二軍キャンプに行って来たといってもまだ体力がない。

ひょいと見ると渡しがあった。岸のむこうが巨人軍寮である。渡し舟は30円。家を出るときにおかあさんが「なにかあったらデンワをかけて来なさいよ」と渡してくれた小銭入れがズボンのポケットに入っているのを思い出した。おふくろさんのおかげの船旅であった。

林は退団後、少年野球の監督に頼まれてコーチになった。が、こう投げこう打ちなさいとは教えなかった。ひる休みに一緒にお弁当を食べるときにONの話をした。「チビッ子たちに野球をもっと好きになってもらいたかった」のだ。2019年秋に逝った。いまは義姉、林よう子さんの慈しみで鎌倉の円覚寺に眠っている…。夏は台風北上のニュースが伝えられる季節である。務台が駆け付ける。バックネットを解体。周囲のネットフェンスを倒し重しに大きな石を置く。務台を一番尊敬していたのは王貞治である。務台の姿に一生懸命働いている父親王仕福さんの姿が重なっていたのかも知れない。

王の朝の名セリフは新宿御苑の近くの家から後楽園球場へ出かけるときには「行ってきまあーす」。夜の名セリフは「ただいまー」。

秋はそろそろ別れのときである。レフトのうしろに務台が育てたコスモスが風にゆれている。

83年秋、81年に横浜高校から入団した二塁手安西健二の整理が決まった。寮長武宮敏明は別れを惜しんだ。安西はどんなことでも一生懸命な選手だったが春に痛めた足首が完治しなかった。武宮は練習を免除し、安西をこれからのために車の運転教習所へ通わせた。

冬は、無事翌年の契約を終えた寮生が帰郷の支度に忙しいときである。

阪神の掛布雅之は妹の道代さんへのおみやげを大阪では買わないで急いで千葉に帰ってくると、千葉駅前のバーゲンへ行って2980円のセーター。2年目も二人でバーゲンへ行って2980円のスカート。3年目に6500円の腕時計をプレゼントした。習志野高校のときに夜、道代さんが紙をまるめて打たせてくれたのだ。道代さんの結婚披露宴で掛布は挨拶した。

「ボクの好きなコトバを贈ります。“人生は上り下りの富士の山”」

巨人寮生たちのみやげはみんな新年の巨人カレンダーであった。

=敬称略=

© 株式会社東京スポーツ新聞社